羽衣の章 第10話


「お邪魔します……」

 マンションの玄関のドアを開けたとたん、千広は違和感を感じた。足元に、揃えられた靴が何足も並んでいる。しかもその中には、絶対に粟島のものではないであろうパンプスやサンダルも交じっていた。

「あっ来たよ! 主役のお姫様が」
「粟島さん早く迎えに行かなきゃ。ひゅーひゅー」
「うるさい」

 玄関と居間との境のドアが開いて、裸足の粟島が顔を出した。パジャマのような麻のパンツに、いつもの白いシャツを着ている。整髪料をつけていない髪の毛が意外と長くさらさらしているのが、やっぱり女性なのだと感じさせた。

「いらっしゃい。狭いけどどうぞ」
「何なんですか? この騒ぎは……」

 千広はサンダルを脱ぎながら思わず尋ねた。粟島はきまり悪そうに部屋の奥を振り返って言った。

「千広が来てくれるっていうから、紹介したい人たちを呼んだら、呼んでない人も来ちゃってね」

 その人たちが誰かを尋ねる間もなく、粟島に背中を押されて部屋へ入った千広は立ちすくんだ。
 フローリングの広いワンルームのソファや床に思い思いにくつろいでいたのは、竹団トップコンビの金子つばさと降旗奏子(ふるはた かなこ)、梅団トップコンビの倉橋真名と坂下梅華、松団準トップの井之口夕子、そしてなぜか元梅団トップの磯田未央と、元竹団トップの戸澤愛だった。いくらスタジオタイプのワンルームとはいっても、大人が全部で9人もいるのだから座る場所を確保するのも難しい。

「ようこそ、千広ちゃん。俺の家じゃないけど」
「可愛い子〜。さすが甲子ちゃんの目ききだね」
「初めまして、よろしくね」

 いろんな人に口々に声をかけられ、千広はぺこぺこと頭を下げるしかない。今まで合同公演ではほとんど役がもらえなかった千広にとっては、口をきいたこともないような雲の上のスターだらけなのだ。

「ベッドをあけろ」

 粟島は同期の金子つばさと、彼女と一緒にベッドの上でごろごろしている戸澤愛に命じた。

「千広、悪いけど、座る場所ないから、ここに座って。缶ビールでいい?」
「はい……」

 大女二人を追い払った後のベッドを軽く整えて、粟島はここ、と布団の上を叩いた。

「私がビール持ってきますから、粟島さんは千広さんと座っててください」

 この面々の中で一番後輩である坂下梅華が気をきかせて冷蔵庫へと走る。
 冷えた缶を受け取り、粟島と並んでベッドに腰掛けると、その場の全員の視線が突き刺さってきて、千広はいたたまれなさに身を縮めた。こんなパーティーが行われているならわざわざ粟島を慰めに来る意味などなかったのに、騙された、と後悔がよぎる。
 そのとき金子つばさがもみ手をしながら立ち上がった。

「はい、では、ただいまより松団トップコンビ粟島甲子さんと羽野千広さんの披露宴を始めさせていただきまーす」

 やんやの喝采が起こり、千広は咎めるように粟島の顔を見た。粟島は肩をすくめてみせて、すぐに言った。

「ちょっと待って。千広はそういう洒落は苦手だから、勘弁してやってくれる?」
「へえ、そうなんだ。粟島さんのことだから、てっきりラブラブ新婚夫婦ができあがってるもんだと思ってたのに」
「私はもう奥さんの尻に敷かれてらっしゃると見ましたよ」

 ちゃちゃをいれる新旧梅団のトップたちに、粟島は淡々と注意した。

「誤解のないように言っておくけど、千広は私の恋人ではないし、ちゃんと付き合っている彼もいるノーマルなお嬢さんだから、失礼なことは言わないように」

 以前に千広が手紙に書いた『粟島さんと私が恋人関係だと誤解されないようにしてください』という条件を、粟島は守ってくれているのだ。

「えっ、彼氏いるの? なぁんだー」

 金子の面白くなさそうな言い方は、本気で粟島と千広のロマンスを期待していたかのようだ。金子だけではなくその場にいる皆が、なんだつまらない、という顔をしている。千広は景気づけに冷たいビールをぐいっと飲むと、勇気をふるって宣言した。

「彼氏じゃありません。婚約者です」

 えーっ、と部屋じゅうに派手なリアクションが満ち、隣の粟島だけがおめでとうと微笑んでくれた。その微笑みが少し寂しそうなことに千広は気付いていたが、気付かないふりをすることにした。

「それじゃ、千広ちゃんが甲子のお嫁さんでいてくれるのは三年間だけってことか」
「当り前だろうが。それと嫁じゃなくて相手役だから」
「嫁でいいですよ」

 千広は自分でも意外なくらい明るく口をはさんでいた。

「ふつつか者ですが、粟島さんの女房役、精一杯務めさせていただきます」

 新旧の花水木歌劇団の仲間たちの目を見ながら、千広はきっぱりと挨拶して深く頭を下げた。
 そして、聞こえてくる温かい拍手と口笛と、頭を撫でる粟島の優しい手の感触と、ありがとう、という囁き声を、一生忘れないだろうと思った。

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 記者発表は正装の紋付袴で、と粟島に言われたとき、千広は心からほっとした。私服だったら買いに行かなければならないし、服のセンスについて後でファンや共演者にいろいろ言われるのも気が重い。だから劇団から支給されているお揃いの紋付でいいというのは本当にありがたかったのだ。

「それではただいまより、八月の松団公演『オペラ座の夜』『眠狂四郎U』の制作発表を始めさせていただきます。この公演より、粟島甲子がトップに就任し、新体制の松団がスタートいたします……」

 司会をつとめる広報部長の眠そうな声がぼそぼそと公演の紹介を始めた。
 今回の公演は、顔見世舞踊ショウがオペラとバレエをモチーフにしたもの。芝居は粟島が準トップ時代に赤坂小劇場で主演した作品の続編で、彼女にぴったりのアウトローなキャラクターを主人公とする有名作だ。
 千広は、ショウではアリア一曲と、コッペリアの一場面と、粟島とのパ・ド・ドゥ。そして芝居では、徳川幕府への反逆をたくらむ西国大名の姫を演じる。その国に幕府の隠密としてやってきた、粟島扮する眠狂四郎に恋してしまうという役柄だ。
 粟島が挨拶をするため立ち上がった瞬間、目もくらむほどのフラッシュがたかれ、千広は恐れおののいた。こんな光を浴びたらまっすぐ立っていられそうにない。

「このたび松団の新トップに就任いたしました、粟島甲子と申します。新しい体制となりましても、変わらず、花水木歌劇団の伝統を守りながら、スタッフキャスト一丸となってクオリティの高い舞台を作っていきたいと思いますので、なにとぞご支援賜りますようよろしくお願い申し上げます」

 粟島はいつもどおり、愛想のいい笑顔など見せず、ポーカーフェイスで落ち着いた声で話していた。それを見て、千広も少し安心した。カメラの前だからといって違う自分を装う必要はないのだ。
 ひとりの女性記者が挙手して質問した。

「今回のショウはバレエがテーマとのことですが、正直粟島さんにバレエのイメージがないのですが、なぜこのテーマを選ばれたのでしょうか?」
「娘役トップの羽野千広がバレリーナだからです」

 ちらっと粟島の視線が来て、千広は自分に記者たちの注目が集まったのを感じ、つい目を伏せた。

「なるほど。では、粟島さんの白タイツ姿なども拝見できるんでしょうか?」

 会場に笑いが起こり、千広は嫌な汗をかいた。自分のせいで粟島に恥をかかせているような気がする。

「二人でパ・ド・ドゥを踊りますが衣装はまだわかりません。お楽しみに」

 そこで初めてうっすらと笑って見せる粟島のたらしっぷりに、女性記者はすっかり虜になってしまったようだった。

「それでは新娘役トップの羽野さんにお伺いします。粟島さんの相手役にと言われたときはどんなお気持ちでしたか」

 千広はついに自分に向けられたフラッシュとマイクに、お腹に力を入れて向き合った。

「初めて聞いたときは、冗談かと思いました。私は松団でも目立つほうではなかったので、なぜ私なんだろうという気持ちばかりが強くて、不安だらけでした。ですが、トップや準トップ、前のトップコンビが本当に暖かく後押ししてくれて、少しずつ前向きになることができました。今も不安はありますが、粟島と団の仲間を信じて、とにかくがむしゃらに努力したいと思っています」

 嘘を言ってはいけない、と千広は会見の前に粟島に言われていた。自分の本当の気持ちを、皆にわかってもらえるようにうまく言葉を選んで言わなくてはならないのだと。

「お二人とも真面目な方ですね。雰囲気が似ていらっしゃるように感じますが」
「よく言われます」

 すかさず粟島が答えたのを聞いて、千広はくすりと笑った。
 当日の夕刊には、その一瞬の千広の笑い顔と、隣の粟島の視線がほんのりと嬉しそうにその笑顔に注がれている写真が大きく掲載されていたのだった。

羽衣の章・完
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