羽衣の章 第8話


 最後は明るく終わりたい、という才原の希望で、アンコールは『深川マンボ』のアップテンポな二人立ちになった。
 暗い舞台袖の幕の陰で、粟島は、軽快に袂をひるがえして踊る才原と大貫を見つめていた。三年間コンビを組んでいただけあって二人の息はぴったりだ。客席も手拍子で熱く盛りあがっている。これが正真正銘、二人の最後の舞台姿なのだった。
 千秋楽のこの日、才原は、すべての客席の椅子に直筆のメッセージカードを置いた。ただでさえ忙しいのにそんなことまでしなくてもいいと口出しした粟島に、これくらいしかできることがないからやらせてくれと静かに押し切った才原は、なんと客席だけではなく楽屋の団員の椅子ひとつひとつにもカードを置いていた。朝、楽屋入りしたときに粟島はそのカードを見つけて思わず握りつぶしてしまった。

『今まで愛してくれてありがとう』

 才原は、花水木歌劇団をやめると同時に、男役をやめ、舞台人であることをやめ、そして粟島との関係もやめるつもりなのだ。
 最後のデュエットダンスが終わり、幕が下りた。

「粟島さん、羽野さん、花束贈呈お願いします」

 割れんばかりの拍手のなかでもう一度幕が上がり、粟島と千広は用意された花束を抱えて才原たちのいる舞台のセンターへと進み出た。

「ありがとう」

 すがすがしい才原の笑顔を見て、粟島は少し腹が立った。出て行く人は気楽なものだ。あんなカード一枚残して、それで終わりにできると思っているのだろうか。
 粟島は才原の手に大きな薔薇の花束を持たせると、そのまま花束ごときつく抱きしめた。

「ちょっと、粟島……」

 客席から悲鳴のような歓声が上がるのにも構わず、粟島は才原を抱きしめたまましばらく動かないでいた。きっと二人きりになったらもうこんなことはさせてもらえないだろうから、このチャンスに才原の感触を両腕に刻みつけておかなくてはならない。

「ほらほら、お客さんに笑われてるで。そんなに寂しい?」
「寂しいです」

 目を見て言わなければと思ったが見られなかった。見たらきっとその場で泣き崩れてしまう。そんな姿を街頭の大画面にさらしたくはない。
 隣の千広がそっと腕を触って促してくれ、粟島は会釈をして舞台袖へはけた。引っ込むとすぐ千広が心配そうに囁いてきた。

「大丈夫ですか?」
「何が」
「いえ、別に」

 何回か繰り返されたカーテンコールの後、才原は自分の楽屋へと戻ってきた。衣装を脱いだ裸の肩に楽屋着の浴衣を羽織らせ、後ろから抱きしめようとすると、やはりすり抜けられた。

「こら、ドア開いてんのに」

 才原は、普段は開け放たれているトップ専用の個室のドアを閉めて戻ってきた。

「はい、いいよ、何しても」
「ふざけないでください」

 粟島はくしゃくしゃに丸めたカードを広げて突き出した。

「これはどういうことですか?」

 心を襲う痛みが激しすぎて、粟島は鉄仮面のような無表情と敬語になるしかなかった。はじめから、花水木歌劇団のトップと準トップという特別な環境がもたらした一時的な関係だと思ってはいた。戸澤と金子のように、また磯田と井之口のように、劇団員の立場を離れても付き合い続ける選択肢は自分たちにはないのだと粟島にはわかっていた。それでも、その関係が終わるときのこの耐えがたい痛みは何だろう。
 才原は粟島に背を向けて鏡の前に座った。

「私ら今まで自分を男やと思ってたところがあるけど、やめたらただの女やねんで。三年後には粟島もそうなる。自分自身のこれからの人生、どう生きるか考えなあかんようになるねん」
「だから何なんですか」
「私は退職したら、年にかかわらず一生続けられる仕事がしたいと思った。一から商売の勉強して、何十年も実家の店を支えてくれた従業員さんたちを幸せにしたい」

 才原の実家は大阪でスーパーマーケットを営んでいる。才原は18歳のときから努力を重ねて築きあげてきた舞台人としてのキャリアをすべて捨て、その家業を継ぐことにしたらしい。

「粟島にも粟島の人生の道があるやろ。それを私が邪魔するのは嫌や」
「言いたいことはわかります。私もあなたに対して同じ気持ちですから。……でも」

 粟島は才原の両肩に手を置き、それだけでは飽き足りなくて、後ろから抱きしめた。びんつけと汗の匂いのするうなじに囁く。

「三年たって私がただの女になったとき、自分の人生にあなたが必要だと思ったら、迎えに行ってもいいですか?」
「はあ? そんとき私がフリーやなかったらどないするん」
「それはそのとき考えますよ」
「こいつ、絶対ひとりやと思ってるやろ。腹立つわ」

 才原は笑いながらベビーオイルを手にとり、最後の舞台化粧を落とし始めた。粟島は姿勢を正し、鏡の中の消えていくトップスターに向かって深く一礼をした。

「ありがとうございました。今の私がいるのは才原さんのおかげです。長い間、お疲れ様でした」
「それはこっちの台詞。お疲れ様。粟島も化粧落としてお風呂入っておいで。楽屋、一緒に出よう」

 廊下に出たとたん、粟島の鉄仮面は崩れ落ち、抑えきれない涙があふれ出した。才原を慕う団員たちはみな泣いていたし誰も不思議には思わないだろうが、それでも粟島は慌てた。

「粟島さん! めずらしいですね。 はい、よかったらこれ使ってください」

 駆け寄ってきた浴衣姿の大貫が、手拭いを差し出してくれた。

「ありがとう。みっともないね」
「いいえ。私なんて泣きすぎてお化粧落とす前に取れちゃいました」

 笑おうとする大貫の目は真っ赤で頬には筋がついている。才原のファンになったことがきっかけで花水木歌劇団に入り、ついにその相手役まで務めあげた大貫は、粟島に劣らず別れがつらいはずだった。
 大貫は才原の楽屋のドアが閉まっているのを見て首を傾げた。

「入ってもいいんでしょうか?」

 一人きりの部屋の中で才原が今どんな状態でいるのか、粟島にはたやすく想像できた。

「才原さん今お風呂だから、もうしばらくしたらドア開くと思うよ」
「わかりました。じゃあ、後で伺いますね」

 素直に踵を返そうとした大貫を、粟島は呼び止めた。

「優奈。最後の踊り、とても良かった。よくここまで才原さんについてきたね」
「ありがとうございます。粟島さんにそんな風に言ってもらえるなんて、すごく嬉しい」

 涙の跡がついた顔でにっこり微笑んだ大貫は、粟島に一歩近づいていかにも重大そうに言った。

「羽野ちゃんのこと、いっぱい褒めてあげてくださいね。女の子は傷つきやすいんですから」
「わかった」

 大貫のおかげで気持ちを建て直し、粟島は素早く事務的に身支度を整えて、一か月使った楽屋の後片づけをし、楽屋口で才原を待った。
 終演後、劇団員たちは、楽屋口にぴったりと乗りつけたバスに乗り込み霞が関の本部ビルへ向かうが、トップの退団する千秋楽には、劇場につめかけたファンに顔を見せて挨拶をしてからバスに乗るのが通例だった。
 それなのに、楽屋口に現れた才原は、普段とまったく同じジャージの上下で顔もほとんどすっぴんだった。

「才原さん、挨拶あるんですよ。その格好で写真撮られていいんですか?」
「あ、忘れてた」

 粟島が自分の着ていたジャケットと才原のジャージの上着を交換してやり、手ぐしで髪を整えてやっている間、才原はぼそぼそと言い訳をし続けていた。

「だってな、今日はいろいろやることが多すぎてな、でもパニックにならへんように普段どおりにしようしようと思ってたから、バスにすぐ乗る気持ちになっててん」
「挨拶を忘れるなんてありえません」
「怒られた……最後まで怒られた……」

 だが、忘れていたという割には、才原のファンへの対応は完璧だった。
 三年間の才原時代の松団を支えた相手役の大貫と準トップの粟島と、三人で肩を組んでファンの前へと出て行き、二人の頬にかわりばんこにキスをして観客を沸かせた後、

「ありがとう! これからの松団もよろしく!」

と叫んで思いっきり手を振った。見えないくらい遠くにいるファンにも、余すことなく。
 バスに乗り、団員たちが団歌を大合唱する騒々しさのなかで才原はずっとにこにこ笑っていたが、粟島はその隣で顔をこわばらせていた。本部に到着したら、職員たちに迎えられ、最後のセレモニーをしてついにお別れだ。才原はすでに江東区のマンションを引き払っており、数日前から近くのホテルに宿をとっていた。しかし粟島にはそこに押しかける勇気はなかった。こういうことならさっき楽屋でもっとやりたいことをやっておけばよかった……最後に二人だけで過ごした夜は二か月前の稽古の初日だったが、そのときのことはうっすらとしか覚えていない。才原がいつもよりわがままだったような気がするが、それも今だから思う感傷なのかもしれなかった。

「よし! みんな! 今からバスの席順決めるで」

 才原が急に振り返って叫んだ。はーいという元気な返事が口々に上がる。

「優奈の席には、井之口。私の席には、羽野。羽野の席には……誰か適当に座って!」

 粟島の耳には千広の「どうしてですか!?」という細い声が一瞬聞こえたが、沸き上がる車内の歓声にかき消された。その音にまぎれて粟島は囁いた。

「才原さん」
「何?」
「必ず迎えに行きます」

 才原は眉根を寄せて粟島を見つめ、頬をへこませて口を尖らせた。

「別に、待ってないよ」

 思わず噴き出してしまった粟島は才原に思い切り脇腹を小突かれた。

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