羽衣の章 第7話


『六月一日付で、下記の異動を命じる。
松団トップスター 粟島甲子(松団準トップスターより異動)
松団娘役トップ 羽野千広
松団準トップスター 井之口夕子(梅団準トップスターより異動)』

 掲示された白い一枚の紙を見て、千広は改めて溜息をついた。もしかしたら劇団の偉い人々に反対されて現実にならない可能性もあると思っていたのに、その希望も潰えてしまった。
 そして、準トップが他の団から異動してくるというのも寝耳に水だった。だがこれはいいニュースかもしれない。千広に注目が集まるのを避けられるからだ。
 なるべく人に会わないよう普段より一時間以上早く出勤した千広だったが、掲示板の前で少しぼうっとしていただけで、もう会いたくない人に出会ってしまった。粟島の相手役を本気で狙っていた、千広の一期上の娘役の依子だ。

「おはようございます」
「あら、おはよう。……これに書いてある羽野千広って、あなたのこと? 地味すぎてわからなかったわ」

 千広は黙って頭を下げた。今はどんな返事でも彼女の気に障ってしまうだろう。依子は作りこんだ巻髪に新調のピンクのセットアップを着ていた。きっと華々しい時間を想像していたのに違いない。粟島は、相手役を決めたのかどうかも徹底的に秘密にしていたから、こんなふうに期待し続けてしまう娘役がいるのだ。下手なやり方だと千広は思ったが、もし少しでも情報を出していたら今度は千広が皆に嘘をつき続けなければならなかったのだから、仕方のないことなのかもしれない。
 依子はショックを冷やかな笑みの奥におさえつけ、ハイヒールを鳴らしながら去っていった。千広は稽古場やロッカーで依子と二人きりになりたくないので、いったん駐車場に身を隠すことにした。
 春の風が皇居の豊かな緑の匂いを運んでくる。二台並んだ公用車の隙間に身を隠すようにしゃがみ込むと、コンクリートの地面の上にアリたちがゆっくり進んでいるのを見つけた。こんなのどかな春の日に、どうして自分は車の陰に隠れていなければならないのだろう。
 粟島に普段通りで来るよう言われたので、千広は明るいグレーのカーディガンに黒の短いフレアスカートという目立たない服装をしていた。これでは地味すぎてわからないと言われても無理はない。トップ娘役はもっとファンの願望を満たすようなゆめゆめしい格好をしているものだから。しかし、服なんか買ったら、多少お手当が上がったとしても、あっという間に吹き飛んでしまう。やはりトップ娘役になって得なことなど何もない、と千広は今さら後悔し始めた。
 そのとき、単車の派手なエンジンの音が近づいてきてすぐそばで止まった。

「おはよう」

 身を縮めている車の隙間を突然覗かれて、千広はびっくりした。

「どうしてわかったんですか?」
「きっと待っててくれると思って」
「待ってたわけじゃありません。いるところがなくて仕方なく……」

 さすがに恥ずかしくて立ち上がると、粟島は、ヘルメットで乱れた金色の髪をかき上げながら上着のポケットに手を入れた。

「これ、つけて。母のものだけど」

 取り出されたのは真珠のネックレスとイヤリングのセットだった。

「後ろ向いて。つけてあげる」
「ちょっと待ってください」

 千広は慌てた。これは簡単に借りていいものではない。きっと、母から娘へと成人式のときなどに譲られたものに違いない。いくら粟島が男役だからつける機会がないといっても、いつか女に戻る日のために大切にすべき物ではないのか。

「お母様のって、すごく大事なものなんじゃないんですか?」
「しまっておくより生かしたほうがいいんだよ。千広のスタイルに合うと思って持ってきた。……ほら、ずっと良くなった」

 粟島は無理やりネックレスをつけると満足げに頷き、イヤリングを千広の手に押し付けた。

「早くつけて。もうすぐここに井之口が来るから、三人で一緒に稽古場に入ろう」

 粟島に当たり前のようにそう言われ、千広はイヤリングをつけながら柄にもなく泣きそうになった。今日稽古場に入るというただそれだけのことが千広にはどれほど大きな試練か、粟島はわかってくれていたのだ。だから、先に来て千広を待ち伏せするつもりでこんなに早い時間に到着したのだろう。

「昨日は眠れた?」
「粟島さんは?」
「ほとんど寝てない」
「私もです」

 短い会話のあとはすぐ無言になった。いい大人が駐車場の車の隙間に二人でしゃがみ込んで静かにアリの行列を眺めている。千広は突然不思議な気分になった。この人と話をするようになったのはごく最近で、しかもほんの数回しか話していないのに、今は劇団員の誰よりも近い存在のような感覚になっている。
 ほどなくぱたぱたと軽い足音がして、粟島のバイクがとめてあるあたりから声が聞こえた。

「おはようございます! 粟島さん、どこですか?」

 粟島は促すように千広の肩を叩いて立ち上がった。

「ここに隠れてる」
「なんで!?」

 笑いながら走り寄ってくる井之口は、松団の団カラーである深緑色のジーンズをはいていて、そのカジュアルさが少年のような外見によく似合っている。千広は舞台での姿しか知らないが、歌もダンスも自由自在でいつも心底楽しそうに舞台をつとめている人という印象だった。梅団のWトップの片割れが団を超えて松団の準トップになるというのは、劇団員にとってもファンにとっても驚きの人事だろう。見方によっては、千広よりも難しい立場かもしれない。松団にも実力ある男役はたくさんいるのにわざわざ割り込んできたと思われてしまうからだ。
 だが、井之口はそんな複雑な事情などまったく気にしていない様子で目をきらきらさせて千広を見た。

「おはよう。六月から松団員になる井之口です。よろしく」

 野球帽にスニーカーの見た目だけではなく、雰囲気も話し方も少年っぽい。

「羽野千広です。よろしくお願いします」
「ふうん。粟島さんがどんな人を選ぶんだろうって思ってたけど、なんかわかる。お似合いですね」
「でしょ」

 二人は通じ合っているようだが千広には納得がいかない。お似合いだなんて、どうしたらそんな言葉が出てくるのか信じられなかった。

「失礼ですが、どこがですか?」
「どこがって……雰囲気も見た目のバランスもぴったりだと思うよ。粟島さんにこんな仲良い娘役がいたなんて知らなかった。しかもちゃんと俺より背も低いし」
「そこか」「仲良くはないです」

 千広は粟島とぴったり同時に発言してしまい、井之口に笑われて赤くなった。

「粟島さんにそんな口のきき方する子、初めて見た。千広ちゃん面白いね」

 面白いなどと人に言われるのは初めてだ。それにさりげなく名前にちゃん付けで呼んでくるのが、梅団では当たり前なのかもしれないがなんだかむずがゆい。
 そのうち団員がちらほらと出勤してくる姿が見え始め、三人は稽古場へと移動した。
 今日は四月の最終週で、松団の五月公演『沖田総司』『ムーランルージュ』の通し稽古が行われる予定である。この公演の千秋楽をもって、才原霞と大貫優奈のトップコンビはトップの任期を終え、二人とも花水木歌劇団を退職すると発表されていた。才原も大貫もそれぞれ故郷の大阪と広島に戻り、第二の人生をスタートさせることになる。

「おはよう」

 粟島が稽古場に顔を出すやいなや、そこにいた団員たちが拍手で迎えた。

「おめでとうございます!」

 千広はその後からおそるおそる付いて行く。本当は逃げたいが、さらに後ろから井之口が背中を押してくるので前へ進むしかない。

「おはようございます……」

 下を向きっぱなしの千広を、あっという間に団員たちが取り囲んだ。

「羽野、おめでとう」
「羽野ちゃん、がんばってね」
「超意外でびっくりした! おめでとう」
「ありがとう」

 千広はやっと顔を上げて微笑むことができた。思ったよりも優しい人はいるものだ。ひそひそとこちらを見て囁き合っているグループもあるが……その中心にいるのは依子だ。
 粟島と千広は、稽古に参加しない井之口を残してとりあえずロッカールームへ行き、稽古着の浴衣に着替えた。千広は真珠のネックレスとイヤリングを外して粟島に返そうとした。

「どうもありがとうございました」
「それは千広が持ってて。任期が終わったら返してくれればいい」

 任期が終わるのは三年も後だ。抗議しようとしたとたん、ロッカールームに才原が入ってきてそれどころではなくなった。

「ようよう、お二人さん。婚約おめでとう」
「そういう言い方は千広が嫌がるんでやめてください」
「へえ、もう尻に敷かれてんの?」
「だからそういう言い方はやめてくださいって言ってるでしょう」

 斜めに流された黒い前髪の間から才原の視線がまっすぐに飛んできて、千広はその瞳にのみこまれそうになった。

「羽野。粟島のこと、頼むで」
「はい」
「何があっても味方になったってな」
「はい」

 他の人ならともかく、才原にそう言われたらもう頷くことしかできない。前の晩に電話で二人の関係を告白されたことも尾を引いていた。才原は、自分が大阪へ帰ってしまった後の粟島のことを心配しているのだ。
 千広は自分だけが周囲を敵に囲まれていると思っていたが、もしかしたら粟島も同じか、もっと多くの敵がいるのかもしれない。粟島が「いつも必ずそばにいる」と言ってくれたように、千広も、粟島を守らなくてはいけない。
 トップ娘役にふさわしくないと悩む前に、果たさなくてはならない使命がある。千広は次第に心が落ち着いてくるのを感じながら、真珠をそっとハンカチに包んだ。

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