羽衣の章 第6話


「ちーちゃんの携帯鳴ってるよ」
「うそでしょ、こんな時間にかけてくる人いないよ、啓太以外に」

 千広は彼と二人で座っているソファから動きたくなかった。だが、ベッド脇のコンセントにつないである小さな機械は確かに震え続けている。こんな遅くに電話をかけてくる相手へ苛立ちながら、千広はソファから立ち上がり携帯を拾った。ディスプレイに表示された電話番号には見覚えがない。

「もしもし?」
『粟島です。夜分遅くごめん。今どこ?』

 聞こえてきた声に千広は思わず床に正座した。あわてて彼に手を振ってテレビの音量を少し小さくしてくれと頼む。

「どうしたんですか? っていうかどうして私の携帯番号ご存じなんですか?」
『家に電話してお父様に聞いたから。優しいお父様だね』

 まったく何を考えているのだうちの父親は、と怒りかけて千広は思いとどまった。娘の上司から電話がかかってきたのだから、きっと何を聞かれてもはいはいとその通りに答えただろう。電話の前で何度も頭を下げている様子が目に浮かぶ。

『今、誰かと一緒にいるの?』

 とっさにごまかさなければと思い、すぐに構わないと思い直した。彼氏がいることぐらい隠すことではない。

「彼の家にいます」
『……へえ、そう。通用口に預けてあった手紙読んだよ。今、少し話したいんだけどいい?』
「ちょっと、取り込み中なんですけど」

 千広の口調のきつさに驚いたのか、啓太が心配そうにのぞきこんできた。

「誰?」

 静かにしてとジェスチャーして、千広は電話を持ち直した。

「すみません、明日じゃだめですか?」
『取り込み中、ね。今夜じゅうに話したい。五分でいいから』
「わかりました。どうぞ。お話し下さい」

 こんな夜中に先輩と話をするのは養成所時代以来だ。あの頃は、昼間に何か失敗をするたび先輩にお詫びの電話をかけねばならず、延々と続く説教が深夜にまで及んだこともあった。だが、今は、先輩のほうからかかってきている。
 啓太は気をきかせてテレビを消し、一間の狭いアパートの少しでも離れたところへ行ってくれたつもりなのか、台所で飲み物を作りはじめた。

『手紙の条件の三番目に書いてあった、笑わせるなっていうのはどうして?』
「それは……」

 いきなりその質問からくるとは予想しておらず、千広はどう答えたらいいか一瞬わからなくなった。手紙を書いたときは、直感的にそれが嫌だと思ったから書いたのだが、なぜ嫌なのか改めて考えてみると言葉にするのが難しい。

「笑うと、心を許しているみたいに見えますし……私が楽しそうにしているって思われないほうがいいと思って」
『それは団員の目を気にしているということ?』
「それもあります」
『千広自身はどうなの。私に心を許したくない?』
「……正直、気が進みません。私生活も舞台と同じようにカップルみたいなのって、私は嫌いなので」

 ついに言ってしまった。ファンの夢をそのまま現実にしたような男役と娘役の仲睦まじさは、花水木歌劇団、特に松団では、推奨されていることなのに。

『彼氏がいるから浮気はしないってことね』
「浮気って」

 思わず反論しかけたが、電話のむこうで粟島がニヤリとしているのが伝わってきてやめた。

『女性の上司と談笑するくらいのことをいちいち気にするなんて、意識しすぎだよ。私を男だと思っているんでしょう。それとも、同性愛者だから?』

 ずばりと言われて千広は動揺した。さっきから心の奥底を揺さぶられてばかりで、手のひらがじっとりと汗をかいている。

「いえ……わかりません」
『千広には言っておくけど、私、才原さんと付き合ってる。二年以上前から。私も浮気はしない。だから安心していい』

 あまりにも衝撃の告白に、千広は返事もできなかった。あの才原と粟島が? 確かに仲がいいとの評判だったが、噂はあくまでも噂で、二人のファンが妄想を語っているだけだと思っていた。現実として想像してみるとなんだかいたたまれなくなってしまう。

「あの、安心はしています。でも、私はずっと舞台は仕事として割り切ってやってきました。いまさらコンビの信頼関係とか、個人的なものを求められても無理です」
『それでいいよ。私も和気あいあいは無理。私たちはお客様の満足のために舞台をやっているんだから、その目的に向かってひとりひとりが真剣に全力で取り組んでくれたらそれでいい。余計なことに心を煩わされずにね』

 その言葉に、千広は少しだけ不安が薄らいだ。トップコンビになるという話をされたとき、「千広はやることをやっていればいい」と言われたことを思い出す。粟島は最初からシンプルな真実を言っていただけだったのだ。

「あの、ひとつお聞きしてもいいですか?」
『もちろん』
「私がトップ娘役で、お客様は喜んで下さるんでしょうか」

 口にした瞬間、思いがけず涙がこぼれて、千広はこれが一番のストレスの元だったことに気づいた。少しずつ階段を上がり観客の人気が後押ししてトップになるのならこんな不安な気持ちにはならないだろうが、千広は今までセンターに立った経験もないのだ。

『自信がない?』
「当り前じゃないですか。粟島さんが気まぐれ起こさなかったら私なんて一生その他大勢だもの」
『気まぐれか。私が何の勝算もなく、松団の舞台がつまらなくなって人気が落ちるような人事をすると思ってるんだ』
「いえ、そういうことじゃ……」
『私が信じられない?』
「半信半疑ってところです」
『まあいいよ、それでも。明日はいつも通り、普通にしておいで。デートの邪魔してごめん』

 おやすみ、と電話は切れた。
 大きなため息をつき、いつのまにかしびれていた足を伸ばす。ふと顔を上げると、啓太が目を真ん丸にしてこちらを見つめていた。

「ちーちゃん、粟島さんの相手役になったの?」

 花水木歌劇団で大道具の仕事をしている啓太は、劇団のことも松団の事情もよく知っている。千広は自分がトップ娘役に指名されたことを啓太にも言ってはいなかったが、今のやりとりで当然知ってしまったのだ。

「そう。明日が発表なの。今夜言おうと思ってたんだけどなかなか言い出せなくてごめんね」
「マジで? すげえ! ちーちゃんがトップ娘役かあ! そんなことってあるんだなあ。あ、とりあえず、おめでとう」

 手渡されたグラスには、赤いリキュールの沈んだ炭酸割りが入っている。啓太は自分のグラスを千広のグラスに合わせて、乾杯、と言った。

「どうした? なんか嬉しそうじゃないね」
「正直不安しかないよ、私なんかじゃとても務まりそうにないし。でも、ありがとう」

 手作りのカシスソーダを飲みながら、これはおめでたい事だったのだ、と千広は改めて気付かされた。そんなこともわからないほど憂鬱な気分に支配されていたのだ。
 啓太は、仕事に鍛えられた太い腕で千広のかぼそい肩をがっちりと抱いて励ましてくれた。

「大丈夫だよ、あの粟島さんがちーちゃんを選んだんだから、絶対間違いないって。あの人マジすげえもん、舞台稽古の一回だけで道具の位置から立ち位置まで全部覚えてるし、超複雑な転換もいつも完璧にタイミング合わせてくれるし。とにかく周りをよく見てるんだよな。アンテナの感度がすごいっていうか。ま、粟島さんがついててくれればちーちゃんが舞台の上で事故にあうことはまずないね」
「やけに褒めるのね」

 なぜか得意げに粟島のことを話す啓太に、千広は少し驚いた。裏方のひとりにすぎない啓太でさえ粟島に心酔しているらしい。

「あの人のこと苦手って言う人もいるにはいるよ。ほら、表情があんまないし喋り方もそっけないし、何を考えてるかわかんないタイプだから。でも俺、何年か前の職員旅行で余興のメンバーに選ばれたっしょ? そのときに粟島さんがダンス教えてくれてさ。あ、意外といい人なんだ、と思ったよ。俺なんかど素人なのに懇切丁寧に何回もお手本やってくれて、できたら『お見事』とか褒めてくれて。意外に優しいんだよ。ちーちゃんのほうがよく知ってるだろうけど」

 優しいかどうかは別として、クールなイメージは粟島の本質ではないということには千広も薄々気づき始めていた。そして、周囲をよく見ているということも啓太の言う通りだ。

「私にはわからない。粟島さんがどんな人だか、何を考えてるのか。どうして私に目を付けたのか……」

 ようやく口にすることのできた心細さがその瞬間溢れ出して、千広は啓太の筋肉質な肩に額を預けて背を丸めた。

「マリッジブルーってやつか」
「変なこと言わないでよ」
「ごめんごめん。いやあ、だけど粟島さんの相手役になれてほんとによかったと思うよ俺は。あ、でも、イケメンの顔見慣れすぎて俺の不細工さに耐えられなくなったとか言わないでくれよ」

 今夜はきっと眠れないだろうと思って添い寝をしてくれる啓太の部屋に来たが、いつの間にか、眠れなくても別に構わないという気持ちになっていた。一晩眠らないくらいで何がどうなるというのだ。放っておいても数時間後に明日は来る。

「私は変わらないよ。やるべきことをやるだけ」

 千広はやっとその覚悟を決めた。

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