羽衣の章 第5話


「あ、粟島さん、ちょっと待って!」

 梅団の千秋楽から数日後の夜、稽古が終わって帰ろうとしたところを呼び止められて振り向くと、派手なオレンジ色のジャケットを着た男役が追いかけてきた。粟島よりも少し背が低く、きつく縮れた栗色の髪と赤いセルロイドの眼鏡が白い肌によく似合っている。

「どうも、今日から梅団のトップやらせていただく倉橋です。よろしくお願いしまーす」

 合同公演で共演したことがあるのでもちろんこの三年後輩の男役・倉橋真名(くらはし まな)のことは知っていたが、一対一で話したのは初めてだ。

「よろしく」
「うわ、粟島さん近くで見るとマジかっこいいっすね」
「どうも」

 快活で物怖じしないところが梅団らしいといえば聞こえはいいが、とにかくチャラい。しかも、全身がド派手なブランド物で固められている。
 梅団の若手男役たち、特に杉山瑞穂の手本となるトップスターが倉橋だということに粟島は不安を感じた。しかしこんな倉橋も、舞台での華やかさや歌とダンスの実力はかなりのものである。ナンパな言動でファンにも人気があり、本気で好きになってしまう女性ファンが多いことでは粟島と並び称される男役なのだ。

「こう見えても小心者なんで、いじめないでくださいね」
「まさか」

 すでにいじめ方を何通りか頭の中で検討していたが、粟島はさらりと答えた。

「ですよねえ、安心しました。それと、こいつが相手役のメイです」

 オレンジのジャケットの後ろから、すっぴんに三つ編みのレオタード姿がいたずらっぽく顔を出した。

「坂下梅華(さかした めいか)。知ってます?」
「知ってる」

 粟島は密かにほっとした。もし冗談でも岸田が相手役だなどと言われたら殴りかかっていたかもしれない。

「坂下です。レッスンの休憩時間なのでこんな恰好ですみません。よろしくお願いいたします」

 ぺこりと頭を下げた坂下は、日本と中国のハーフで、人形のようなはっきりとした顔立ちとめりはりのある体つきの持ち主だ。三か国語を操る頭の良さといい、梅団の梅という字が入った名前といい、トップ娘役にはうってつけの人材である。

「よろしく。いいじゃないの、セクシーで」
「やだ、粟島さんったらエッチなんだから。うちの嫁さんに手出すのやめてくださいよ?」
「間に合ってるよ」

 ひらりと手を振るとやはり突っ込まれてしまった。

「そういえば、相手役はもう決まったんですか?」
「ああ、まあね」
「誰、誰?」
「教えない」
「ええっケチ! 教えてくださいよ」

 あまり話したこともないのに倉橋は粟島の肩をつかまんばかりに顔を覗き込んでくる。松団のトップ娘役というのはそれほどまでに関心を引くものなのかと粟島はげんなりした。

「明日辞令出るから、掲示板見て」
「明日ですね。わかりました。超楽しみっす」

 興奮気味の二人に早々に別れを告げ、粟島はまっすぐ帰宅することにした。しかし、通用口を通り過ぎようとしたとき、制服を着た守衛に呼び止められた。

「粟島さんにお手紙預かってますよ。さっき帰って行った娘役さんから」

 手渡された白い封筒に書かれた羽野千広の名前を見て、粟島は胸騒ぎを覚えながらその場で手紙を開いた。
 なんの面白味もない黒いペンで丁寧に書かれた文面は、このようなものだった。

『粟島様
 先日のお話はお断りできないとのことですのでお受けいたしますが、喜んでお受けするわけではありません。本当は辞職しようかと思ったのですが、再就職も簡単ではないので、いられるだけ劇団にいようと思います。
 コンビとして仕事をするにあたり、私のほうから粟島さんにお願いがあります。
1.むやみに私に話しかけないでください(特に皆の前で)
2.粟島さんと私が恋人関係だと誤解されないようにしてください
3.私を笑わせないでください
以上です。
 これらは私が今後松団で過ごすために必要なことですので、どうぞよろしくお願いします。
羽野千広』

 さすがの粟島もこの文面には唖然としてしまった。辞職まで考えたということは失うものがないのだろうが、それにしても大先輩の次期トップスターに対してこの突っぱね方はあっぱれなものである。
 一番目と二番目の条件はなんとなくわかる気もするが、三番目の笑わせるなというのはどういうことだろうか。
 屋上の手前の階段の踊り場でコンビを組む話をしたときから、千広とはほとんど話せていない。あきらかに避けられている。今の手紙でトップ娘役をやる意志が確認できただけでも良かったと言わなければならないほどに。
 こんなことになるなら、才原にさんざん説教されたように、早いうちに相手を探してペアを組んでいればよかったが、もし千広に申し込んだとしてもきっと振られていただろう。上司の権限を使わなければ千広と組むのは無理だ。
 彼女を松団の皆にトップ娘役として認めさせ、のびのびと舞台に専念できる環境を保障し、自信と笑顔を取り戻させるのは相手役である粟島の役目だ。それなのにこんな手紙をもらってしまうとは。自分なんて、なんの魅力もなければ人徳もない、相手役ひとり付いて来ない最低な男役だ。
 妙に自虐的な感情に襲われて、粟島は携帯電話を取り出した。すっかり暗記している番号を迷わずに打つ。

「……終わった? 今どこ?……じゃ、待ってる。降車場で」

 劇場から本部ビルまで劇団員を運ぶバスが到着するエリアに佇み、粟島はぽつんと一人、煙草をくゆらせながら電話の相手を待った。

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「なんでその子じゃなきゃダメなの? 他にも喜んで相手役になってくれそうな子がいっぱいいるじゃない。そんな甲子が自信なくすような子をわざわざ選ばなくても」

 同期の金子つばさは、自宅に粟島を招き入れるとすぐに熱いコーヒーをいれてくれた。もう立派な竹団のトップスターだというのに、まめなところは少しも変わらない。粟島はそのコーヒーを一口すすって、溜め込んでいた息を吐いた。

「わからへん。でも、どうしても千広がいい」
「ふうん。その素直すぎる言葉、そのまま伝えたら落ちない女いないと思うけどね」

 金子の家にはもうすっかり二人暮らしの生活感が漂っている。パートナーの戸澤がいると何かと気を遣うので本当は遠慮したかったが、終演後の金子が疲れているだろうと思って、誘われるまま家に来たのだ。

「ストレートには言われへん。気持ち悪がられるし」
「面白い子だね。男役が嫌いなの?」
「そう。ペアも組んでないしそもそも花水木が嫌いらしい」
「ええっ、そんな子いるんだ」

 驚いた顔の金子が、すぐにニヤニヤし始めた。

「わかった。だからでしょ、甲子がその子のこと気になるの」
「何が」
「昔から、簡単に手に入らないものほど夢中になるタイプじゃない」

 そのとき、鴨居にぶつかるくらい背の高いショートボブの女がリビングルームに顔をのぞかせた。

「あ、甲子ちゃんひさしぶり。コーヒーの匂いがしたから来ちゃった。なになに、恋の話? 才原さんと別れて新しい彼女できたの?」

 金子の同居人で、元竹団のトップスターである戸澤愛は、しゃべりながら自分のマグカップにコーヒーを淹れ、あっという間にどこからか取り出したドーナツも一緒に両手に持ってソファにあぐらをかいた。最近、戸澤は高級バッグブランドのイメージモデルに採用されてしょっちゅう海外へ行くなど忙しくしているらしいが、深夜に甘いものを食べる習慣をやめる気はないようだ。

「違います」

 完全に部外者の戸澤にまた一から説明するのは面倒なので、粟島は存在を無視することにした。

「あの子が反抗的だから興味があるとかじゃなくて、何というか……共感するんや。せやから選んだ」
「そうなんだ」

 金子は顎に手を当てて眉根を寄せ、しばらく黙った後、真剣に粟島を見つめてきた。

「ねえ、絶対今ちゃんと話し合ったほうがいいよ。明日が発表なんでしょ」
「でももう遅いし」
「今じゃなきゃだめ。電話番号知ってる? 職員名簿調べようか?」
「電話番号はわかるけどこんな夜更けに電話なんて……」

 勤務時間外の真夜中に家に電話などしたらますます嫌われるだろうと粟島は思ったが、金子は頑として譲らなかった。

「今すぐ電話しなって。発表になったら周りがうるさくなるからいろいろ難しくなっちゃうよ」

 そこへ戸澤がしたり顔で口をはさんだ。

「そうそう」

 全然わかっていないくせに何が「そうそう」だと粟島は思ったが、戸澤はそれなりに話を理解していたらしい。

「発表の前って私でさえ緊張して眠れなかったもんねえ。その子、きっと今ものすごく不安なんじゃないかなぁ。甲子ちゃん以上に」

 粟島は上着のポケットから携帯電話を取り出し、松団のフォルダの中の千広の電話番号を探した。そういえば千広に電話をかけるのも初めてだ。トップに内定したとき、団員全員の電話番号を登録しておくよう勧めてくれたのは才原だった。そのことに感謝しながら、粟島は通話のボタンを押した。

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