羽衣の章 第4話


 鳴りやまない拍手に繰り返されるカーテンコールの途中で、粟島は才原と一緒にそっと監事室を出た。スタッフの人混みをかきわけて楽屋へ向かう。
 今日は松団よりも一足先に迎えた、梅団のトップコンビ、磯田未央と後藤舞の退団公演の千秋楽だ。
 タキシードとイブニングドレスに身を包んだ夢のように美しい長身の二人が、最後に名残のデュエットダンスを踊る。音楽はダブルトップの井之口が歌う愛の讃歌だ。
 客席に入れなかった大勢のファンのために、劇場の外壁に設置された大型モニターでは中の舞台が中継されている。その画面を見につめかけた人々が愛の讃歌を合唱する声がロビーにまで聞こえていた。
 粟島と才 原が楽屋へ入ると、ちょうど最後のカーテンコールを終えた磯田と後藤が舞台裏へ引っ込んできたところだった。

「よっ、御両人。良かったで」
「才原さん! ……なんだ、粟島さんもいるのか」
「いるよ」

 急にテンションの下がった磯田に粟島は笑いをこらえた。その原因はもちろんわかっている。オーケストラボックスから上がってきたダブルトップの片割れ、井之口夕子だ。
 大きなタオルを握り締めた井之口は、真っ赤になった目にそれを当てて、まだ衣装を着たままの磯田の胸にすがりついた。粟島はかなりお邪魔をしている気分になったが、才原は例によって面白がっている。

「なんや井之口、寂しいの?」
「すみ、ま、せん……」
「才原さん、後にしましょう」

 共に踏める最後の舞台が終わった直後なのだから、今くらい泣かせてやれと粟島でさえ思った。しかし才原は容赦ない。

「どうせ同じ家に帰るんやから、そんなに悲しむことないやろ」
「ちょっと……」

 たしなめようとした矢先、才原は泣きじゃくる井之口にすっと近寄ってその背中を撫でた。

「最後のソロ、泣かんとよう頑張ったな。偉かった偉かった」

 磯田もその言葉に微笑みながら頷き、井之口は歯を食いしばって泣き止んだ。これだから才原にはかなわないのだ。粟島は苦笑しながら三人に歩み寄る。すると、磯田がしっしっと手を振った。

「粟島さんはあっち行っててください」

 いつもなら無視するところだが、今日だけは気を遣ってやることにした。本当は磯田の男役として最後の姿をもう少し眺めていたかったのだけれど。

「わかったよ。三年間お疲れ様。井之口、記者会見の打ち合わせしたいから、後でまた連絡する」
「ほな私も帰るわ。来週あたりご飯でもしようや。またね」

 才原と粟島が出口へと向かうその背後で、磯田は梅団の団員たちに取り囲まれ、まるで院長回診のように皆を引き連れて裏方のスタッフたちに挨拶回りをしに行った。松団ならこんなときはトップが一人で行くだろうが、梅団はいつでも皆で一緒にお祭り騒ぎの行事にしてしまうのだ。こんなところにも団のカラーが現れるのだなと感じつつ、粟島は、井之口は大丈夫だろうかと少し心配になった。
 実は、井之口は来月から松団に異動し、新しい準トップに就任するのである。
 ダブルトップという特別な体制だった梅団で、その片割れである磯田が退団するにあたり、井之口の処遇がどうなるのかは大きな問題だった。世間に向けてダブルトップという形で発表していたとはいえ、井之口のほうは社内の待遇的には準トップだったのだから、規則で言えばやめる必要はない。
 粟島が聞いたところでは、梅団の次の三役はもう決まっており、井之口のポジションは用意されていなかったらしい。劇団側は、井之口に単独トップをさせる気はなかったのだ。しかし井之口が歌劇部への残留を強く希望したため、劇団側は困った。
 そこで、同時期にトップが交代する松団の準トップにしてはどうかという案が浮上したのだ。異例中の異例だが、任期終了後に歌劇部をやめるという前提で、松団の準トップにさせてもらったのだと井之口は言っていた。
 粟島としては芸も確かで性格も良い井之口は歓迎だが、梅団から突然やってきて準トップになるというのは並大抵のことではない。特に梅団と松団とは団のカラーが180度違うので、戸惑うことも多いだろう。粟島自身も入団七年目に竹団から松団へ異動してきたのだが、そのときにも数々の人知れぬ苦労があった。経験者の自分がフォローしてやらなければならない、と粟島は改めて思った。
 そのとき、ふと才原が尋ねてきた。

「どうする? これから」
「どうするって、稽古場に戻らないと」

 一時間後からショウの振り付けが行われることは才原もわかっているはずなのに何を言うのかと顔を見たら、あほ、と肩を叩かれた。

「もっと先の話。羽野と井之口と三人で、松団をどう引っ張るか」
「……才原さんまでプレッシャーかけないでください」

 溜息をつきながらタクシーに乗り込み、行先を告げる。
 隣に座る才原は、磯田の姿を一目見ようと劇場を取り囲むファンの群れをしみじみと眺めながら言った。

「団員みんながお客さんのほう見るようにするねん。トップの顔色伺うんやなく。自分のポジションとか団の中の人間関係にかまけて、お客さんがおろそかになったらおしまいやで」
「はい」

 残り少ない時間のなかで、才原は一生懸命伝えようとしてくれている。粟島の弱い部分を全部わかっているこの人は、きっと粟島が抱いている不安の核心も察しているのだろう。

「大丈夫。粟島ならできる。私が言うから間違いない」

 その優しさにポーカーフェイスが崩れそうになるのを粟島はぐっとこらえた。

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