羽衣の章 第3話


 松団の次期トップ・娘役トップ・準トップが誰になるのか、そのことはファンのみならず松団の団員たちにとってもいま一番の関心事である。

「トップはきっと粟島さんでしょ?」
「だよね。けっこう年上のトップが続くけど、松団はやっぱりそれくらいのキャリアがあったほうがいいと思うわ」
「じゃあ相手役は? あの方と釣り合う娘役って、なんか思い浮かばない。あまりにも美形すぎて」
「うんうん。クールだから仲良しコンビっていう感じにもならなさそう」
「でもさ、もしあの粟島さんから、二人で新しい松団を築いていこう……なんて言われたら私死んじゃう」
「同感! あのクールな粟島さんがデレたりなんかしたらもう鼻血ものだよね」
「ああ、でも中途半端な娘役に甘い視線とか向けてるところは見たくない」
「わかる。あの粟島さんの相手役はやっぱりそれなりに納得できる人にしてほしいわよね」
「そんなこと言って依子、狙ってるんでしょ?」
「あら、狙ってない娘役なんているのかしら、逆に。お目にかかりたいわ」

 そんな噂話を横目に、千広は自分には関係のないことだと思いながら昼食の弁当を食べていた。千広は日頃から食堂のメニューは食べず、自分で作った弁当を持参することにしている。体型と体調の管理をかねた節約のためだ。
 そこに、当の粟島がやってきた。だが千広は、その場の空気がぱっと変わったことにも皆の視線が粟島を追っているのにも気づいていなかった。食べ終わった弁当箱をハンカチに包んで立ち上がろうとしたところへ目の前に立ちふさがった男役がいる。

「千広。ちょっといい?」
「粟島さん……」

 あまりにもタイムリーに渦中の人物が現れたので千広はやっと周囲を気にした。見ないふりをしながら皆がこちらに神経を集中しているのがわかる。千広は自分が透明人間だったらいいのにと思った。とにかく、自分には粟島に話しかけられる理由などないはずだ。

「来てくれる? 話があるから」
「後で行きます」

 千広はとっさにそう答えた。ここで粟島と一緒に出ていったら衆目の的になり、後で受けるであろう追及が面倒だ。さすがというべきか粟島はすぐに察したようだった。

「じゃ、屋上で待ってる」

 白いシャツと金髪の後姿が食堂から消えると、千広はたちまち同僚の娘役たちに取り囲まれた。

「粟島さん、何の用だったの?」
「別に何も」
「別に何もないのに声かけるわけないじゃない」

 本当に面倒くさい連中だ。千広は適当に嘘をついた。

「この前、駐車場で缶ビール飲んでたのを注意されただけ」
「なあんだ」
「私も注意されたいわ。駐車場でビール飲んでみようかしら」

 あまりのくだらなさに笑いそうになったのをこらえて、千広は、

「じゃ、私、歯磨きしてくる」

とその場を逃げ出した。
 娘役たちの間をすり抜け、誰にも見られていないかどうか気を付けながら、薄暗い階段を素早く上った。食堂から屋上まではかなりあるが、基本的に階段は養成所の生徒しか使わないので人目を避けるには都合がいい。
 弁当箱の袋を片手に階段を上がりながら千広は考えた。わざわざ呼び出して話とは本当にいったい何のことだろうか。松団の準トップが、スター路線でもない子役専科の娘役に。仕事の話だとしたら最近めっきりモチベーションが下がっていることを心配されているのか、それとも何かしでかしてしまったのか。プライベートとなるとまるで見当もつかない。
 だが自分がいくら考えたところで何もならないことはわかっているので、千広は無駄な想像をやめ、ひたすら足を動かした。
 屋上に出る扉の前に粟島は立っていた。

「下から階段で来たの?」
「はい」
「お疲れ様。屋上の鍵を忘れたからここで話すよ」
「はい。何ですか?」

 千広は、顎を上げて見上げなくてもすむ程度に距離をあけて粟島と向かい合った。室内履きなのになぜこんなに脚が長いのだろう、などと関係ない思考が一瞬頭をかすめる。
 粟島は変にもったいをつけることもなくごく普通に口を開いた。

「六月から、松団のトップコンビは私たち二人で行くことに決まったから」
「決まった、って」

 千広の頭にまずひっかかったのはその言葉だった。
 あまりにも予想外な内容は冗談にしか感じられなかったが、それでももし事実であるならば問題なのはその部分だ。決まったということは、変えられないということだから。

「そう。私が千広を相手役に選んだ。これから三年間、よろしく」

 差し出された白くて細い指の手を見て、千広は首を傾げて後ずさった。

「ちょっと、粟島さん正気ですか? 申し訳ありませんがお断りします。冗談なら怒ります」
「冗談じゃないよ。それに断るっていう選択肢はない。千広にも振られたらもう後がないし」
「私にもって……誰かに断られたんですか?」

 それは素直に驚きだった。この劇団の中に、自分以外に、粟島の相手役にと望まれて断る娘役などいるはずがない。

「岸田君にね。養成所の生徒だったから無理もないけど」
「岸田って、梅団の岸田布美子……? あんな生意気な子、どこがいいんですか? それにその子に振られたから今度は私って、ほんと趣味悪い……っていうかもしかしてロリコ」

 千広は冷たくいい香りのする手のひらに口をふさがれた。

「悪いけど、私は大人の女にしか興味ないから」

 そう言って粟島の顔は能面のように表情をなくした。千広はまだ、これが照れている証拠だということを知らない。

「すみません。でも、粟島さんの相手役に私はミスキャストですよ」
「自信がないの? 8年も松団で娘役やってきたんだから、今までどおりきっちりやることをやっていればいいだけ。千広ならできる」

 粟島は本当にそう思っているのだろうか。娘役トップという役職は団員のキャリアの頂上のひとつだ。そのうえ粟島の相手役という立場は松団の娘役たちの多くが夢に見る憧れのポジションなのだ。いくら今までどおりと言われても、そんな座につけば余計なことに煩わされて仕事どころではなくなってしまうだろう。そういう精神をすり減らすようなごたごたは安月給の割に合わない。

「粟島さん、何もわかってませんね。今まで松団で何見てきたんですか? 松団の娘役みんな、千夏さんだって数井さんだって依子だって本気で粟島さんの相手役狙ってるんですよ。誰だって私に比べたらずっとお似合いです。私なんかを相手役にしたらみんな納得しませんよ」

 この選択は間違っているのだと、千広は主張した。

「もしかして仲間外れにされるんじゃないかと思ってる?」
「別にもともと仲良くしていたわけじゃありませんけど、私がトップ娘役になったことで団の雰囲気がギスギスするのはごめんです」
「誰がなってもギスギスするのは同じじゃないの。それに、千広は孤独にはならない。いつも必ず私がそばにいるから」

 ふと肩が固いコンクリートに触れ、千広はいつの間にか後ずさりしすぎて壁際に追い詰められていることに気付いた。粟島に壁ドンされたなんて松団の娘役たちにはうらやましがられるだろうが、身長の低い千広は、こういう体勢がいちばん嫌いなのだ。
 千広は思いっきり顔を背けた。

「そういう口説きみたいな言い方やめてください」
「ごめん」

 粟島の白いシャツからほのかに香る青いシャネルの香りが遠のいて、千広はやっと息をついた。

「誤解しないでほしいけど、千広が必要ないと思うなら、個人的に私と親しくしなくてもいいよ。千広を選んだのはそういう意味じゃないから」
「じゃあどういう意味なんですか?」

 聞きながら千広は少しほっとしていた。もしかしたら何かの間違いで粟島が自分に下心を抱いているのかもしれないと勘ぐってしまっていたのだ。そういう理由でもなければ、相手役になど選ばれるはずがないから。
 粟島は真剣な顔でひとつ瞬きをした。切れ長でまつ毛の長い美しい目だ。この目から放たれる視線で何万人のファンを殺してきたかわからない。千広は絶対にごまかされまいと用心した。その目の中の本心を必ず見抜いてみせる。
 粟島は淡々と言った。

「千広なら、私を好きにならないと思った」

 裏を返せば他の娘役は全員自分を好きになると思っているのだ、この女は。
 千広は呆れて物も言えなかったが、とりあえず、

「確かにそうですね」

と答えた。

「仕事のパートナーとは対等な関係でいたい。それに私は千広のことを昔から見てた……変な意味じゃなく。いいものを持ってるし本当は舞台が好きなのに、素直になれていないような気がした。どこか割り切っているというか、斜めから見ているような。この子に夢はないのかな、と思っていた」

 千広は今度はびっくりして口がきけなかった。いつもひとり別世界にいるか、取り巻きに囲まれている王子様だと思っていた粟島が、自分のような無名の団員をこんなに鋭く観察していたなんて。

「だから、たった三年間だけど、千広が全力で夢に向かってもがいてるところを見てみたいと思った。自分の存在全部をかけてぶつかる舞台って良いものだよ」
「粟島さんって意外と熱い人なんですね」
「この三年でだいぶ変わった、というか、表に出せるようになった。きっと千広も変わるよ、トップ娘役になったら」
「そうでしょうか」

 肩をすくめると、粟島はにやりと笑った。

「才原さんに言わせると、千広と私は似ているらしい」
「どこがですか!?」
「私にもわからない。でもあの人の人を見る目は確かだから、きっとそうなんだと思う。組んでいればそのうちわかるかもね」

 粟島はゆっくりと歩き出し、階段を降りはじめた。

「待ってください。まだ話が……」
「もう終わった」

 自分の話したいことだけ話したらもう用はない、それが粟島だ。そもそも最初から、断る権利はないと宣言されていたのだ。千広は大きな溜息をついてその場に座り込み、休憩時間のぎりぎりまで。記憶の中の粟島の目の奥を探り続けた。

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