羽衣の章 第2話


 粟島が羽野千広に注目し始めたきっかけは、ささいなことだった。
 七年前、松団に入団してきた千広は、ほかの若い団員たちがおしゃれを競い合っている中で、毎日毎日同じ格好で本部に現れた。クルーネックのカーディガンに短いフレアスカート、黒いトートバッグ、バレエシューズ。髪型もいつもまったく同じ、編み込みの低い位置のお団子だ。だが毎日同じとはいっても、貧乏くさいというのではなく、自分に似合う上質な物をきちんと手入れして着ている。そして、七年たった今でも彼女の服装はまったく変わっていない。
 それがこの花水木歌劇団ではどれだけ特殊で、強い意志を必要とすることか。粟島はひそかに感心していた。二十歳の若さで自分のスタイルを確立しているなんて、パリジェンヌにもそうはいないだろう。
 だから、ある種のこだわりをもった人として粟島は千広のことを認識していた。
 そしてもう一つ、千広がどうやら花水木歌劇団を好きではないらしいということも粟島の興味を引いた。
 ほとんどの団員の入団のきっかけは、まず思春期に花水木歌劇団のファンになり、憧れが高じて受験を目指すというパターンだが、千広は生活苦のためにやむを得ず受験したらしい。女性が男の役をやることをいまだに受け入れられないようで、男役に黄色い声を上げている同僚たちを後目に、気持ち悪いとつぶやいたりしているのを粟島は目ざとく見ていた。

「それで、ふうこちゃんへのプロポーズの返事、どないやった?」
「振られた」

 どんな顔をしていいかわからなくなったとき才原はこういう表情をするのか、と粟島は冷静に目の前の美しい恋人を眺めた。

「嘘やろ? なんで? あんなに粟島に憧れてたのに」

 カウンターのスツールから転びそうなほどの大げさな才原の動揺は、粟島を気遣う気持ちの大きさからくるものだ。才原がそう言ってくれるだけで粟島はもう嬉しいのだった。

「杉山瑞穂に負けた」
「…………マジか」

 才原の手がカウンターの上の粟島のグラスに伸び、その琥珀色の酒をなめようとしたので、粟島は慌てて止めた。

「無茶しないでください」
「これが飲まずにいられるか」
「どうして才原さんが荒れるの」

 手を握ってたしなめながら、粟島は我慢できずに笑ってしまった。才原は不満そうに唇をとがらせる。

「なんで笑ってられるんや。研修所の生徒に負けたんやで? 松団の粟島ともあろうものが」
「私にできることはやったから」
「悔しくないんか?」

 かみつかんばかりの勢いで見上げてくる才原の眉間のしわを指先で撫でると、ますますそのしわが深くなる。
 悔しくないのかと言われても、粟島の胸中には不思議なくらい悔しいという気持ちはなかった。ただ気恥ずかしいほど爽やかな風が吹いているだけだ。
 岸田が何を選び、どう生きるのか……それは彼女自身が決めることで、彼女自身にしか決められないことだ。粟島には選択肢を用意してやることと、自分の想いを告げることしかできない。たとえ選ばれなくても、その答えは彼女が自らの一生をかけて下した決断なのだから、対等なひとりの人間として同じ真剣さで受け入れるしかない。

「別に。誰と組むかは彼女が決めることやし」

それに、岸田と杉山の間には何か運命的なものがあるのを粟島も感じていた。遠からず二人はトップコンビになるだろう。花水木歌劇団の将来を思えばそのほうがいいのかもしれない。
 才原はまだ納得のいかない顔で、おとなしくグラスを離し自分のカフェオレのカップを抱えた。

「それでどうするん、相手役。そろそろ決めなあかんのやろ?」
「どうしましょうかね」

 才原がものすごい三白眼で睨んでくるのを溜息でかわそうとしたが逃げられなかった。

「もう誰か考えてるやろ。言うてみ」
「才原さんの目はごまかせへんな。……ところで、ひとつ聞きたいことが」

 粟島は真顔で才原を見つめた。

「人を笑わせるにはどうしたらいい?」
「なーに〜?」

 才原は、後ろから見られたら絶対にキスしているように見えるくらい近くに顔を寄せてきた。

「もしかして、羽野?」

 これにはさすがの粟島も本気で驚いた。

「なんで……」
「そっくりやん。あの子。私の中でひそかに、女粟島って呼んでる」

 自分だって一応は女の粟島だというくだらないツッコミは心の中におさめ、粟島は言われたことの意味を考えた。才原は千広と自分が似ているというが、もちろん外見はまったく違うし、そんなふうに感じたことはなかった。

「どこが似てんの?」
「仏頂面で、自分の道しか見えてない職人タイプ。粟島が準トップに決まってから、どうやってこいつを笑わせようかって私もずうっと考えてたんやで。笑いさえすれば絶対的に魅力あるもん」

 それはまさに粟島が千広に対して考えていることそのままだった。
 千広はいつもポーカーフェイスで、芝居以外では舞台上でさえ上品な微笑み程度の表情を崩さない。しかし、夏休みこどもミュージカル教室の仕事で子供たちに踊りを教えているときにたまたま目に入った自然な笑顔は、別人のようにキラキラしていた。この顔をファンの人々に見せることができたら、確実にトップコンビとしての勝算はあると粟島は直感したのだ。

「才原さんはどう思う? 千広のこと」
「面白いんやないか。変わり者同士で」

 もう自分自身がいなくなっている松団でどんなコンビが主演をするのかという問題は、才原にとって完全に面白がる対象でしかないのを粟島は悟った。

「まあ、何にせよ粟島君の本気しだいやな」

 そのとおりだ。溜息とともに酒を飲み下し、才原から具体的な意見をもらえなかったことに思った以上に落胆しているのに気づく。トップの責任で決めなければならない相手役の問題をどうしても才原に相談せずにいられなかった自分の甘さを、粟島は反省した。これからはもう才原に頼ることはできないのだ。

「トップって孤独なんやな……」

 その重荷をもうすぐ下ろす才原はにやにやと笑って粟島の頭を撫でた。トップスターは孤独だが、素の自分はひとりではないことを粟島は幸せだと思った。

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