羽衣の章 第1話


 上海にバレエ留学していた羽野千広(うの ちひろ)の元に、両親から懇願するような手紙が届いたのは、17歳の3月だった。
 あの人生を変える手紙が届いた日から、今日でちょうど10年の月日がたったのだ。
 千広は、黒いトートバッグから食堂内の自動販売機で購入したビールの缶を取り出し、一口飲んで大きなため息をついた。
 あの日、バレリーナへの道を歩きだしたばかりの千広に両親が知らせてきたのは、父親が職を失い留学費用がまかなえなくなったという現実だった。すぐに日本の高校へ戻って卒業後は就職してほしいという内容に頭が真っ白になったときの気持ちを千広は昨日のことのように思い出す。
 まだ風が冷たい三月の夜に、本部ビルの駐車場で冷えた缶ビールをあける。こんなことでもしなければ、千広の熱くなりすぎた頭をひやすことはできそうになかった。

「やめようかな……」

 小さな声で思わずつぶやいたときだ。

「千広にやめられると困る」

 ぎょっとして振り返ると、そこには、すぐ近くに停めてあるバイクの持ち主が立っていた。
 薄い色の金髪を櫛目の粗いオールバックにし、短いレザージャケットを着た美しい男……いや、男にしか見えない女性だ。

「すみません。こんなところで」

 飲んでいたビールを隠すようにして会釈すると、彼女、粟島甲子(あわしま こうこ)は真顔で近づいてきた。千広は怒られる覚悟をした。花水木歌劇団の娘役という立場でありながら、ファンの目に触れるかもしれない場所で缶ビールを立ち飲みするなんて、許される行為ではない。

「どうしたの。何かあった?」
「え」

 千広は面食らった。怒られるどころか心配されてしまった。それも、クールなことで有名な上司に。粟島は、千広が劇団員として勤務する花水木歌劇団松団の準トップ男役である。美しすぎる容姿とポーカーフェイスから、氷のようだと団員に恐れられていた。
 そんな粟島に、自分の小さな悩みを打ち明ける勇気はなくて、千広は後ずさった。

「いえ、別に。すみません。失礼します」
「待ちなさい」

 鋭い声が飛んできて、今度こそ怒られてしまった。

「別にって返事はないでしょう。聞いていることに答えて。何かあったのか、なかったのか」
「何もありません」
「じゃあどうしてやめようかと思ったの」
「私自身の問題です」
「どういう問題」

 粟島の追及は厳しかった。千広はこの人とこんなに口をきいたのは初めてだった。千広自身もそんなにおしゃべりなほうではなく、仲間にはクールだと思われている。

「もう27ですし、これからの人生のことを考えてみたら、劇団員としては先が見えたような気がして」
「また子役だったから?」

 図星を指されて千広はうつむいた。
 千広の身長は153センチで、花水木歌劇団の団員の中では最小といっていいほど小柄だ。目の前の粟島の顔を見るためにはかなり上を見上げなくてはならない。
 もうキャリアは入団七年目になるが、オーディションでは子役ばかりをあてがわれる。このまま年をとって子役が無理となったら老婆の役をさせられるに違いない。それに、ダンスが一番の得意技なのに、背が低すぎて見た目が揃わないからと群舞のメンバーから外されることもたびたびあった。
 今日、トップスター才原霞の退団公演となる次の公演の配役が決定された。芝居ではまた子役で、ショーでも洋舞の場面には入れず、日舞の場面しか与えられなかった。この場所にいても自分の望む舞台生活は送れない。千広はそう見切りをつけたのだ。

「七年目にもなって大人の女の役ができないなんて、この先、見込みないですよね。私みたいな劇団員はいてもしょうがないんですよ」
「それで寒空の下でヤケ酒飲んでいたわけだ」

 突然、頭の上に手のひらを置かれ、千広は反射的に振り払おうとしてしまったが、かろうじて首をすくめてこらえた。

「千広は松団に必要な娘役だよ。少なくとも私にとっては。今度から、飲むときは誘って。じゃあ」

 粟島がヘルメットを被ってバイクにまたがるのを見ながら、千広はつい言ってしまった。

「その口説きみたいなしゃべり方何なんですか」

 粟島はヘルメットの中でにやりと笑い、そのままバイクを発進させて、駐車場から出て行った。
 おかしな人だ。
 千広は、なぜかいつまでも頭に残る手のひらの感触を肴に、残りのビールを飲み干した。

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