花ものがたり 銀座案内

【銀座七丁目】


「舞、それ残すつもり?」
「え……」

 梅団トップ娘役の後藤舞(ごとう まい)は、目の前のメインディッシュの皿を見下ろした。添えられた野菜はなんとか食べたものの、主役である牛ホホ肉の赤ワインソース煮込みは半分以上形が残っている。

「すみません、いただきます」
「無理しなくていいよ。どうしたの? 食欲ないの?」

 真正面から容赦なく顔色を覗き込んでくるのは、上司であり相手役である梅団トップの磯田未央だ。
 磯田から食事に誘われ、いつもなら喜びいさんで供をする後藤だが、今日はどうしても気が進まなかった。いや、今日だけではなく半月ほど前から食欲がなくなってしまったのだ。面倒見のいい磯田のことだから、きっとそれに気づいてわざわざ誘ってくれたのだろうと後藤には察しがついていた。

「いえ、大丈夫です。これ、美味しいですよね」

 明るい笑顔を作って肉を口に運んだが、やはり飲み込みにくい。
 こんなに繊細な性格のはずではなかったのに……と後藤は自分のふがいなさを呪った。
 ここは銀座七丁目にある赤いビルの中の老舗洋食レストランである。二つのフロアをぶちぬいた高い天井と品のある雰囲気、確かな味の料理、丁寧なサービス―――家族連れもカップルもここへ来ればいつでも素敵な時間を過ごすことができる。日本全国のみならず、海外から銀座を訪れる人々の間でも有名な店だ。
 憧れのレストランのディナーコースを目の前にして、後藤が食事もとれないほど落ち込んでいるのは、最近見つけてしまったインターネットの掲示板のせいだった。花水木歌劇団の熱心なファンが集い、観劇の感想やスターの噂話などに花を咲かせるその掲示板で、最近、後藤への批判が盛り上がっているのだ。
 いわく、可愛げがない。いわく、背が高すぎる。さらには、磯田と仲が悪いらしいというガセネタまで書き込まれていた。人前に出る職業である以上、今までも常に批判の目にはさらされてきたし、どんな意見も自分を成長させる糧として受け止めてきたが、今度のことは後藤にとってショックが大きかった。
 男役から転向してすぐにトップ娘役になった後藤には、娘役として自信の持てることが何一つなかったからだ。
 舞台の上での技術的なことは一から勉強しなおすしかないとしても、普段の服装や立ち居振る舞い、相手役と二人でいるときの居方やコメントの内容など、トップ娘役に最初から要求されていることのほとんどが後藤は苦手だった。今日着てきたサックスブルーのシャツワンピースも、松団や竹団のトップ娘役なら絶対に着ないだろう。

「舞、最近おかしいんじゃない? 何かあったの? どんなことでもいいから話してごらん」

 真剣な磯田の眼差しが、誤魔化すことは許さない、と語っている。後輩の立場で逆らえるはずもなく、後藤は溜息をついてナイフとフォークを置いた。
 勇気を出して、恐る恐る投げかけてみる。答えによっては立ち直れなくなるかもしれない問いを。

「未央さんは……どうして私を相手役になさったんですか?」

 磯田は不思議そうな顔をした。

「そんなの決まってるじゃない。好きだから」
「へ……?」

 後藤は思わず失礼な聞き返し方をしてしまった。

「見た目とかダンスとかお芝居とかファッションセンスとか、全部好き。もちろん人柄も好きだけどね。舞とならコンビとして一緒に楽しく仕事していけるだろうと思ったの」

 そう言って磯田は男役の手つきでグラスを口に運び、美味しそうに赤ワインを飲んだ。

「それで、悩み事は何? 私に質問して話題変えようとしたって無駄だからね」

 後藤は笑いをこらえて俯いた。
 悩み事など今の一瞬で消えてしまったということに、磯田は気づいていないだろう。
 どんなに未熟でも、自分には自信の持てることがただひとつだけあるのだ、と後藤は思った。そしてそれはおそらく、トップ娘役として一番大事なことだ。
 相手役に愛されているということ。
 それさえあれば、他の誰に何と言われようと、迷いなく梅団のトップ娘役として顔を上げて歩んでいける。

「悩み事は……明日お話しします。それから、私も、未央さんのこと好きです」

 磯田は軽やかな笑い声を上げた。

「何当たり前なこと言ってるの。あ、デザートどうする? 食べられそう?」
「もちろんいただきます」

 洋梨のアイスクリームとフランボワーズのムースをぺろりと平らげた後藤を見て、磯田はあっけにとられたような顔をしていた。
 その夜のデートの帰り道には、ハナミズキが夜空にほんのり紅い花を揺らしていた。
 
 元気を取り戻した後藤は、すぐにあることに気付いた。
 同期の娘役、上野皐月(うえの さつき)の様子がおかしい。
 上野は、梅団のダブルトップの片割れである井之口夕子の相手役として、後藤と同じく娘役トップの役割を果たしている。最近の梅団は磯田組と井之口組の二手に分かれて公演することが多かったので、以前のように上野と顔を突き合わせることがなくなっていた。
 だから、久しぶりに梅団全員出演の公演の稽古をするようになってやっと、上野の変化に気が付いたのだ。

「ねえ皐月、痩せた?」

 さわりたくなるような頬の丸みがチャームポイントだった上野の顔が、前よりもさらに一回り小さくなってしまっている。

「まあね、このところ忙しくて。でもちゃんと食べてるから心配しないで」

 きゅっと猫のように目を細める独特の笑顔もどこか無理をしているように感じた。どんな時でも明るく元気という団の中でのイメージを無理やり保とうとしているようだ。
 後藤は思い切って誘ってみた。

「皐月に相談に乗ってほしいことがあるんだけど、今夜時間ある?」
「相談って?」
「ここじゃ言えない。奢るからさ」

 上野は茶目っ気たっぷりの上目遣いで後藤の顔を見上げた。

「何奢ってくれるの?」
「銀座パーラーのオムライス」
「乗った!」

 本当はもちろん相談事などない。でも、ストレートに話を聞くよと誘っても上野は大丈夫だと言い張るに違いなかった。彼女の面倒見のよさにつけこんで、頼るふりをして誘い出すしかない。
 先日磯田と行ったあのレストランに行けば、上野も元気になれるはずだ……そんな根拠のない思いが後藤の胸に唐突にこみあげていた。見るだけで楽しく、食べるだけで幸せになれる料理がそこにはある。ディナーコースとまではいかないが、上野の好きなオムライスくらいは食べさせてあげたいと思った。
 その日、稽古が終わった後、後藤と上野は素早く身支度を整え、雨の中を地下鉄丸ノ内線で銀座へ向かった。公演に向かって覚えなければならないあれこれに必死になっているうちに、いつの間にかもう梅雨の時期に入っていたのだ。
花水木歌劇団に入団してからというもの、稽古と本番を繰り返すだけで季節がどんどん過ぎてしまい、あっという間に年月がたっていくのが後藤には少し恐ろしかった。一日一日を意識していないと見失いそうになってしまう。上野と初めて出会ってから、もう十年が過ぎていた。今日はその十年のなかでどんな一日になるのだろうか。

「わあ、やっぱりオムライスはこれだね」

 大きな白い皿の上に載った薄黄色のつるりと形の整ったオムライスには、トマトから煮込んだ自家製の真っ赤なケチャップがかかっている。
 しかし、いつもならぱくぱく美味しそうに食べる上野のスプーンの動きが、今夜は確実に鈍かった。やはり何か胸につかえているものがあるに違いない。
 後藤はとりあえず自分のことから切り出すことにした。

「皐月、あのね。私、最近……」
「うん」
「自信、なくしてて」

 上野の丸い瞳がゆっくりとまたたいた。

「舞ちゃんが?」

 大げさに聞き返され、後藤は思わず笑ってしまった。

「何よ、失敬な」

 叱られてばかりの新人時代でさえ後藤はいつも強気でがむしゃらだった。そんな後藤が自信をなくすというのがどれほどのことか、上野はよく知っているのだ。

「だって俺様な舞ちゃんが自信ないだなんて。何があったの?」
「ん、ちょっとね。今思えば全然大したことじゃなかったんだけど」
「また強がっちゃって」
「この前、未央さんがここに食事に連れて来てくれて、それであっさり立ち直ったの」
「ふうん、そうだったんだ。ごちそうさま」

 痩せたせいでさらに大きく見える瞳を悪戯っぽく見開いて、上野は笑った。

「皐月はどうなの。夕子さんとうまくいってる?」

 上野の笑顔がこわばったのを、後藤は見逃さなかった。

「うん、相変わらずだよ。夕子さんが未央さんと付き合ってるってわかったときはちょっとだけ気まずかったけど、私にもちゃんと前と同じように接してくださるし」
「ほんと?」
「うん」
「最近休憩のときも食事行かないのどうして?」

 上野がスプーンを置いた。

「なんでそんなところまで見てるの? 監視されてるみたいで気持ち悪いよ」

 俯いた顔の大きな目から今にも涙がこぼれ落ちそうだ。

「ごめん、皐月。おせっかいかもしれないけど心配なんだ。何かあったの?」
「何もないよ!」

 上野は膝の上のナプキンを掴んで目を拭いた。

「ほんとに大丈夫だから。舞に心配してもらわなくても、私が自分の中でなんとかすればいいことだから」
「皐月」

 すっかり痩せてしまった肩をつかんで揺さぶりたい衝動をこらえ、後藤は長い腕を伸ばして上野の手を握った。

「全然大丈夫じゃないじゃん。こんなに痩せちゃって、オムライスも食べられないくらい辛い思いして。そりゃ私には何もできないかもしれないけど一緒に泣くことくらいはできるよ。もっと頼ってよ」 

 養成所にいた二年間、卒業して同じ梅団に配属されてからさらに八年間、苦労も喜びも共にしてきた二人の絆は、最近になって後藤が男役から娘役に転向したとき、少しだけ形を変えた。
 娘役という同じフィールドに立ってから、同期の二人はライバルとみなされるようになったのだ。友情が壊れたという噂すら出るほどだったが、本当はもちろんそんなことはなく、上野が自ら後藤の指導役を買って出ていた。
 しかし、何の因果か今では後藤のほうが半歩先を行っている。梅団はダブルトップ制なので井之口の相手役である上野もトップ娘役の一人ではあるが、ダブルトップの代表が磯田である以上、後藤のほうが立場は上なのだ。
 トップに就任して以降、後藤のほうには申し訳なさから妙な遠慮が生まれてしまったが、上野はことさら以前と変わらない態度を貫いていた。だが、いつの間にか、上野の口から愚痴を聞くことはほとんどなくなっていた。それが上野のプライドだったのかもしれない。

「私にも言えないこと?」

 上野の痩せた手は、後藤の手のひらの下からするりと引きぬかれ、テーブルの下に隠れた。

「……私、夕子さんの相手役やってて、いいのかな……」
「そんな、皐月以外に誰がいるのよ」

 熱が入りすぎて思わず眉間に皺が寄ってしまう。実際、容姿、実力、相性のどれをとっても上野以上の適任者など考えられないのは明らかだというのに、なぜそんな疑問に取りつかれてしまったのだろうか。

「私、夕子さんのファンの方に嫌われてるから」

 後藤は上野のこんな蚊の鳴くような弱弱しい声を初めて聞いた。

「どうしたの? 何か言われたの? お手紙とか?」

 首を横に振る上野のショートボブの髪がさらさらと揺れた。

「もしかして、ネット?」

 上野がこくりと頷く前から、そうに違いないと後藤は確信していた。人をここまで弱くするのはネットの言葉の暴力ぐらいだ。誰にも打ち明けたくなくて抱え込んでしまうつらさも、食事が喉を通らない気持ちも、後藤には痛いほどわかる。

「皐月、実はね……、私がこの前まで自信なくしてた原因も同じなんだ。掲示板にいろいろ書かれてるの見ちゃって」
「舞も?」

 上野の丸い瞳がますます大きく見開かれた。そして、小さくこわばっていた表情がふっとほどけて苦笑いに変わる。

「私たちってほんと、同じ時期に同じことで悩んで、面白いよね。似た者どうしというか」
「運命共同体?」
「魂の双子かも」
「あ、それカッコイイ」

 上野の笑顔が初めて本物になった気がして、後藤はほっとした。握りしめていたスプーンを持ち直し、まだほんのり温かいオムライスを一口頬張ると、ケチャップライスの甘さとバターのやさしい香りが口の中に広がる。
 後藤はこの美味しさが味わえることに感謝した。苦しんでいたときは食べ物の味もわからなかったのだ。
 上野もつられるようにスプーンを口に運んでいる。

「……美味しい……」
「美味しいね」

 微笑み返すと、上野は長い睫毛を伏せたまま唐突に呟いた。

「私、舞がいればいいや」
「え?」
「舞がいれば何があってもやっていける。相手役さんに振られても、世間に中傷されても、自分に自信がなくても」
「それって告白?」

 笑いにしようとして尋ねると、上野は泣きそうな表情で見つめてきた。

「ずっと私のそばにいてくれる……?」

 後藤もその目を見つめ返す。

「いるよ、いつだって。何言ってるの今さら」

 上野は涙をこらえるように何度も頷き、おもむろにオムライスを食べ始めた。
 そう、今さらだ。初めて出会った入学式の日からいつだって二人は一緒だったし、これからも同じ立場で同じ任期を務めて同時に辞めることになるのだ。人生でこんなに運命が重なり合う相手に出会うことは二度とないだろう。
 食べ進むうちに、なぜか、二人とも向かい合って泣き笑いしていた。手が震えてうまく食べられないくらいに。

「舞、なんで泣いてるの?」
「わかんない。なんか、胸があったかくて……。皐月こそ泣かないでよ」
「舞が泣いてるからだよ。私たち魂の双子だもの」

 涙の混じったオムライスは、二人にとって一生忘れられない味になった。
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