花ものがたり 銀座案内

【銀座八丁目】


 真理子はショーケースの上を拭きながら夕暮れの並木通りを通る人々をぼんやりと眺めていた。
 今日の昼間もこれといった出来事はなく、小さなペンダントが一つ売れただけで、ほとんどが暇な時間だった。十二時にオープンしてから日が暮れるまではいつもすることがない。
 しかしここは銀座の八丁目、人の流れが活発になるのは六時過ぎてからだ。この店の入っているビルも、周りのビルも、一階の路面にはブランド店が入っているが上階には小さなバーやクラブがひしめきあっている。もうあと一時間もすれば髪を結い上げた華やかな着物姿のホステスたちが三々五々出勤してくるだろう。そして彼女たちへのプレゼントを買い求める客たちがこの店にも立ち寄るはずだ。
 真理子は売れ筋のカラークリスタルのピアスとペンダントを見栄えよく並べ替え、忙しい時間帯に備えて口紅を引き直した。
 そのとき、トレンチコートを着た一人の背の高い客が店のドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 真理子は瞬時に緊張した。中折れ帽を深く被りサングラスをかけたその客は、どこから見ても芸能人とわかる洗練されたオーラを発していたからだ。
 いったい何者なのだろうと思いながら真理子は素早く客を観察した。ジーンズの脚は細く長く、スタイル抜群だ。帽子からちらりとのぞく短い襟足は蜂蜜のような明るい茶色で、その下の首筋はびっくりするほど色が白い。
 モデルか俳優に違いない、と真理子は思った。
 その客は店内の壁に飾られているガラス製の置物をさっと見回し、ほぼまっすぐに真理子のいるカウンターへと近づいてきた。

「すみません。リングを見せていただけますか」
「はい。当店のリングはすべてクリスタルガラス製のジュエリーになりますが、よろしいですか?」

 客の口元がかすかに微笑み、真理子はどきっとした。

「ええ。まだダイヤモンドを贈る覚悟はできていないので」
「恋人様へのプレゼントですか? 素敵ですね」

 高級クリスタルガラス専門店のこの店のアクセサリーは、見た目は宝石のように美しいのに値段が手ごろなので、誕生日やちょっとしたお祝いの贈り物に選ばれることが多い。きっとこの客もそういうプレゼントを選びにきたのだろう。
 真理子はビロードのトレイに、派手すぎず品の良いデザインのリングだけを並べてカウンターの上に置いた。

「このあたりが女性のお客様に人気のデザインになります」

 客は真剣にカウンターに身を寄せてリングをひととおり眺めた。そしてふと顔をあげてサングラスを外した。
 真理子は驚いた。その客は美しく化粧をした女性だったからだ。
 そして客はさらに驚くことを言った。

「貴女なら、どれがいい?」

 実はそう聞かれることは少なくない。だがそれはほとんどが女性の好みなどわからない年配の男性が、たとえば妻や娘にプレゼントするときに聞いてくるものだ。この客は冗談を言って真理子をからかっているのだろうか。

「そうですね……」

 真理子は最も無難な答えをすることにした。

「こちらのニルヴァーナというリングが当店のいちばんのおすすめでございます。さりげないデザインですのでどんな方にも喜ばれるかと」

 客は真理子のすすめたリングを手に取り、ためつすがめつしたあと差し出してきた。

「ちょっとはめてみて」
「はい……」

 真理子は困惑しながらもリングを左手の薬指にはめた。この客だって指は白くて細く、真理子の指よりも綺麗なくらいなのに、なぜわざわざそんなことをさせるのかわからない。

「貴女、指のサイズ何号?」
「九号ですが……」
「そうだと思った」

 会心の笑みを浮かべる美しい客に見つめられ、真理子は顔がほてってきた。
 もしかしなくても、この客の恋人は女性なのだ。女性とはいえこの客は、そこらあたりの男性よりもはるかに格好良い。こんな女性ならば恋人になってもいいかも……等と勝手な妄想が膨らんでいく。
 しかし今はぼうっとしている場合ではない。この人は店に来た大事な客なのだ。仕事仕事、と心の中で唱えながら強引に平常心を取り戻す。

「いかがですか?」

 いくつもの面にカットされた薄いブルーのクリスタルガラスに覆われたリングをはめて見せると、客は顎に手をあててひとつ頷いた。

「その色は貴女によく似合ってる」
「まあ、お上手でいらっしゃいます」

 真理子は照れてしまった顔を隠そうと、急いでショーケースの向こうへかがみ、色違いのリングを別のトレイにのせて出した。

「こちらのブラックやホワイトもシンプルでどんなファッションにも合わせやすいですよ。可愛らしいのがお好きな方でしたらピンクもございます」
「それじゃあ……」

 客は長い指で真理子の手とトレイの上のひとつを指差した。

「今つけてる水色の九号と、ブラックの十一号をください。水色の九号はプレゼントで」

 その注文を言いながら、彼女の黒い瞳がまっすぐに真理子を射抜いた。熱い視線、とはこういう目のことを言うのだろうか。
 真理子は慌てた。

「あの、当店ではそのようなことは、ご遠慮申し上げておりますので……」
「え?」

 真理子は何と説明したらいいか迷いながら深々と頭を下げた。

「恐れ入りますが、お客様からのプレゼントは……」

 客はしばらくきょとんとしていたようだったが、急に豪快に声をあげて笑い出した。

「ごめんね、口説いてたわけじゃないの。目が悪いからじっと見るのが癖で」
「も、申し訳ございません!」

 体はかっと熱くなって額からは冷や汗が噴き出る。
 いくらなんでもお買い上げの商品を自分へのプレゼントと勘違いするなんて、この客がもし再びこの店に来たら、もう絶対に顔を合わせられないと真理子は思った。こんな恥ずかしい思いをしたのは生まれてこのかた初めてだ。

「私ったら、お客様があんまり素敵なものですから、つい……」

 また口を滑らせてしまって真理子はさらに赤面した。

「こちらこそ不躾に失礼しました。好きな人の手が貴女とよく似てるんです。良いものを勧めてくれてありがとう」
「いえ……、プレゼント、喜んでくださるように祈っています」

 三万円のリングが二つ売れたにもかかわらず、真理子はその夕べの客のことを勤務日誌にはひとことも報告しなかった。自分の心の中だけの大切な宝物にしたくなるような出来事だったから。

銀座案内 おわり
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