【銀座六丁目】 リビングのテーブルの下に落ちていたその写真を見たとき、井之口の心は自分でも思いがけないくらい強い衝撃を受けた。 いつかはこういうことになるとわかっていたが、ついに現実を目の前につきつけられたような気がしたのだ。 写真の中で口を開けて楽しげに笑っている磯田と、彼女の長い腕を首に巻きつけられてやはり楽しそうに笑っているハンサムな黒人の若い男―――しかもその男は上半身裸で、美しく鍛えたなめらかな体を見せつけている。垢抜けた雰囲気からみて、どこぞのパーティーで出会ったモデルかもしれない。とにかく写真の中で二人は旧知の親友のように仲が良さそうだった。 磯田は雑事に忙殺される養成所時代も含めて物心ついたときから彼氏が途切れたことがないという。そんな磯田が恋人として井之口を選び、ローンを組んでマンションまで買って「ずっと一緒にいてほしい」と言ってきたのは、嘘のようだがまぎれもない事実だ。 井之口の頭は確かにそのとき、信じられない、これは何かがおかしいと思ったのだが、そんな直感も一緒に暮らし始めてからの磯田の自分への執着ぶりによって押し流されていった。 二人でくつろいでいる時間にも隙あらば色事に持ち込もうとしてくる磯田を、 「どうして女同士なのにそんなことしなきゃいけないんだよ」 と突き放すと、 「夕子は私のこと好きじゃないんだ」 と寂しそうな芝居をしてみせるので、しかたなくほだされたふりをしつつもその腕をすりぬけるのが日課のようなものだった。それでも磯田は井之口がどこまで本気で嫌がっているのか正確に読み取って、本当にしてほしいことをしてくれる。 そんな日々のコミュニケーションのせいで、ちょっと息苦しいほど愛されていると感じていられたのに、心の平安はたった一枚の写真でがらがらと崩れた。そこに写っている磯田が、井之口の考える本来の彼女の姿そのものだったからだ。 「今日帰りにちょっと買い物寄りたいんだけど、夕子も一緒に行こうよ」 「どこ?」 「アバクロ」 「ああ、銀座か」 楽屋で磯田に誘われたとき、井之口の頭の隅には昨夜見つけた写真のことがひっかかっていたので、返事も少しだけ遅くなった。 アバクロはアメリカに本店のあるカジュアルブランドで、花水木歌劇団の団員には稽古用の服として人気がある。スウェットやTシャツが一年中豊富に手に入るし、スポーツブランドと違ってファッション性が高く格好いいというのがその理由だ。 だが、劇団員に人気のその店に、井之口はまだ一度も行ったことがなかった。洋服はメンズの物しか着ないというこだわりを持っている井之口は、メンズでも幾分か自分の体に合うブランドを探し当てたが最後、その店だけを利用しがちなのだ。 「夕子の好きなチェックのシャツもあるよ。プレゼントするからお揃い着ようよ」 「いらない。俺は買わないから」 つい口調が強くなってしまう。稽古場でダブルトップが揃いの服など着たらまぎらわしいと怒られるに決まっているのに……いやそれ以前にペアルックなんて恥ずかしいことができるはずもないのに、どういうつもりで言っているのだろう。 「どうしたの? 具合悪い? 今日行くのやめて早く帰ろうか」 「別に。大丈夫」 「ほんと? なんか今日おかしいよ、夕子」 井之口は顔を逸らして野球帽を目深にかぶった。男とのツーショット写真を見た瞬間、切ないほど好きだったことに気付いたなんて、口が裂けても言えない。 磯田は磯田の思うようにするべきだ。男がいないとだめだなんて昔からわかっていたことだ。恋愛経験もろくにない三十女の井之口に、いったい磯田の望む何が与えてやれるというのか。 その時が来たら磯田をすみやかに解放すればいい、今はただ待つのが自分の役目だとひたすら頭の中で繰り返し、井之口は楽屋口を出る磯田の後を追った。 磯田は、銀座の表通りの中央通りからではなく、交詢社通りへ回って店へ行くことにしたようだ。 西銀座にある劇場からソニービルのほうへ横断歩道を渡り、ビルの裏路地を南へ二ブロック歩いて左に曲がると、じきにアバクロ特有の香水の匂いが通りに染みだしてきた。 「こんなとこまで匂いがするんだ」 「店に入るともっとすごいから覚悟して」 しかし、一棟まるごとショップになっている黒いビルの入り口を入ろうとしたとき、井之口の足は完全に止まってしまった。 黒いタンクトップにお仕着せらしい赤いチェックのシャツを着たドアマンの西洋人男性たちが、磯田に向かって親しげに手を振ったのだ。 そのうちの一人はなんと、写真に写っていたあの男だった。 「ミオ! ハウヤドゥーイン?」 「ハイ、ガイズ。アイムトリフィック!」 常連なのは知っていたが、その場で男たちとハグしている姿は、店以外でも会っているのではないかと思うほど親しげだ。 井之口はまるで浮気の現場に出くわしてしまったような気まずさを覚え、身動きどころか目を離すこともできなかった。 だが磯田は、固まっている井之口の肩を抱いて無理やり店の入り口へ連れてきた。 「シーズマイハニー」 男たちの視線がいっせいに野球帽の下の顔に突き刺さる。井之口は真っ赤になってしまった。肩を優しく包む磯田の手のひらの暖かさが、恥ずかしさをいっそう助長する。 「ハイ」 手を上げてそれだけ言うのが精一杯だった。男たちがスイートだのラブリーだのと囁いているのを振り切って暗い店内へ逃げ込み、上機嫌な磯田を睨み付ける。 「未央、何のつもりだよ」 「ごめん。でも夕子を自慢したかったんだもん」 「さっきの店員さ……左にいた黒人の」 「左の子? えっと、なんて名前だったかなあ。ジャックとかジョンとか確かそんな」 「友達じゃないの?」 磯田は怪訝そうな顔をして、すぐにああと笑い出した。 「あの写真か」 勘のいい磯田は井之口の考えていることぐらいお見通しのようだった。ハニーなどと紹介されてもう疑いはほとんど晴れたが、磯田の口から説明を聞いて安心したい。ついさっきまで身を引く覚悟をしていたくせに、現金なもので、あの男と磯田に特別な関係がないらしいとわかったとたん、もっと強く抱きしめてほしいと思ったりしている。 「ほら、見て、あれ」 指差された方を振り向くと、暗いフロアの階段の下に上半身裸の若い男が営業スマイルを浮かべながら立っていた。そして、ポラロイドカメラを持った女性店員が観光客らしい女性の二人連れをうながし、その裸の男と一緒にスリーショットを撮影している。来店の記念にモデルとの写真をプレゼント、というサービスらしい。 「この前うちの兄夫婦と来たときに撮ってもらったの。夕子も撮ってもらう?」 井之口は首を横に振り、珍しく自分から磯田の腕を取って指を絡めた。強く握り返してくれる磯田の口元がにやにやと緩みっぱなしなのは少々気になるが、このほっとした気分は何物にも代えられない。 目の前でエレベーターが止まって扉が開き、これに乗るのかと進みかけたが、磯田に腕を引かれて振り返った。何だか悪い予感がする。 予感は当たり、磯田は井之口の腕をがっちり抱いたまま撮影係の店員に向かって声をかけた。 「ねえ、写真撮ってくれる?」 「オーケイ」 ぎりぎりまで短いショートパンツを履いたポニーテールの店員が胸の前にカメラを持ち上げる。 「嫌だって言ったじゃん」 井之口は店員に聞こえないように囁いた。見知らぬ裸の男の側に近寄りたくなかったのだ。しかし磯田はその裸の男性モデルにこう言った。 「私たち二人で撮りたいから君はちょっとあっちへ行ってて」 えっ、と思う暇もなく腰に腕を回されてこめかみに頬を押し付けられ、暗い店内にフラッシュが光る。 「もう一枚お願い」 井之口ははしゃぐ磯田に仕方なく調子を合わせてカメラに目線をやった。 「ありがとう」 カメラから吐き出された二枚の写真を受け取ると、磯田は嬉しそうにひらひらと写真を空中に泳がせ、一枚を井之口に差し出した。 「はい、これ夕子の」 ぼんやりと色や形が浮き上がってきたポラロイド写真には、満面の笑みを浮かべピースサインをした磯田とどうにも居心地の悪そうな表情の自分が顔をくっつけて映っていた。これが他人から見た自分たちの姿というものなのか。仲が悪そうにも見えないが、カップルにも見えない。 「未央のやつ見せて」 「だめ。……あっ」 素早く写真を奪い取ってひと目見るやいなや、井之口はそのままその手で磯田の頭をぽかりと殴った。 「酷い、暴力反対!」 暴力反対など知ったことではない。写真の中の磯田は、カメラを向いた井之口の横顔に思いっきりキスしようと唇を突き出してしていたのだ。腰も太腿もぴったり寄せて。 井之口は真っ赤になって、誰が見ても恋人同士にしか見えない写真をぐしゃりとジーンズのポケットに突っ込んだ。 「お願い、夕子、返してよ」 「返すわけねえだろ。未央のはこっちね」 先ほど自分が渡されたほうの写真を磯田の手に押し付け、井之口は、香水の強い香りがする二階へ向かって暗い階段を駆け上がった。 本当は磯田に愛されている自分の姿をいつまでも手元に残しておきたいのだと悟られないように。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |