【銀座二丁目】 「こんなとこに本当に定食屋なんてあるんですか?」 ブティックの立ち並ぶ銀座の並木通りを急ぎ足で歩きながら、金子つばさ(かねこ つばさ)は首を傾げて背の高い恋人を見上げた。 「ふふん」 恋人の戸澤愛(とざわ あい)は得意げに鼻をならして、スニーカーショップの前を意気揚々と通り過ぎ、カジュアルなジーンズの店の前まで来て立ち止まった。 「ここだよ」 「え? ここ洋服屋じゃ……」 あたりを見回そうとして金子はすぐに足元の看板に気付いた。古びた小さな白い立て看板に刺身定食、あじフライ定食、ぶり照り定食などと書かれている。 看板に駆け寄り、ふと顔をあげて金子は驚いた。 ジーンズ店の脇には十メートルほども奥へ入る細い路地があり、その突き当たりに、藍染ののれんがかかった昔ながらの定食屋が店をかまえていたのだ。 こんなところに店があるなんて、通りすがりの観光客は気が付かないだろう。きっと客は地元で働く人ばかりに違いない。 「さすがですね、愛さん。こんなお店知ってるなんて」 「ちょっと前に劇場のスタッフに教えてもらったんだ。今は週二で通ってる」 「へえ、最近冷たいなと思ったらそういうことだったんですか」 昼公演と夜公演の合間の短い休憩時間になると、戸澤はいつも金子に声をかけてきて一緒に出前を取っていたのだが、この半月はそれが減り、休憩になると外へ飛び出していくようになった。まさかと思いつつちょっぴり浮気を疑っていたほどだが、美味しい定食屋を見つけたのだとわかれば何よりも納得できる。戸澤は白いご飯とがっつりしたおかずのメニューが大好物なのだ。 ノスタルジックな引き戸に手をかけようとした瞬間、後ろから止められた。 「ちょっと待って。お財布確認する」 「私、一万円持ってますから大丈夫ですよ」 「だめだめ、千円札じゃないとだめなの」 戸澤は真剣な顔で長財布を開き、千円札の枚数を数えて満足げに頷いた。 「いいよ、行こう」 入ろうとすると中から若いOLの三人連れが出てきたので二人は道を譲った。意外と若い女性も利用しているようだ。 店内は魚の匂いがした。カウンター席と四人掛けのテーブル席、そしてフロアの真ん中は大きな六人掛けのテーブルが並び相席するようになっている。ぱっと見たところ、その大きなテーブルがひとつ空いていたので、金子はそこへ座ろうとした。 すると、戸澤に後ろからジャケットの腕をつかまれた。 「席は言われるまで座っちゃだめ」 「えっ……」 忙しそうに立ち働いていたエプロン姿の中年女性のひとりが、入口に立っている二人を見つけていらっしゃいませと言った。 「お兄さんふたり? カウンターどうぞ」 客がどこに座るかはこのおばさんが決めるらしい。 お兄さんと言われたことにも一切反論せず、戸澤は慣れた様子で狭いカウンターの椅子に大きな体を押し込んだ。金子もその隣に座る。 目の前の壁にずらりと貼られた短冊には、定食系から単品のおかず、お酒のつまみまで何十種類ものメニューが書かれていた。 「わあ。こんなにいっぱいメニューがあると悩みますね」 「その壁に貼ってあるメニューじゃなくて、ホワイトボードのやつから選ぶんだよ」 言われて指差されたほうを見ると、確かにホワイトボードがあって、読みにくい小さな文字でいくつかのメニューが書かれている。 「こんなにいっぱい貼ってあるのに注文できないんですか?」 「ううん。できるんだけど、なんとなくそれが今日のランチって感じなの」 「ふうん」 この店に通い始めてほんの短い期間に、戸澤はいくつもの不文律を完璧にマスターしているようだ。 座って一息もつかないうちに、黒いシースルーのブラウスにエプロンという姿のおばさん店員が、お茶と漬物と箸を持ってきた。 「かつおのたたきお願いします」 おばさんがテーブルにお茶を並べている間に戸澤は素早く注文をした。 「はいかつおね。そっちのお兄さんは?」 「えっと……」 まだホワイトボードのメニューにすら目を通し終えていないのに、決まっているはずがない。金子は大急ぎで決断した。 「カキフライ定食で」 「かつお一丁カキフライ一丁!」 かろうじて間に合ったらしい。このタイミングで注文をしなければならないとは、ちょっと早すぎるのではないかと金子は思った。 「愛さんもう何食べるか決めてたんですか?」 「うん、だいたい海鮮丼かお刺身と鶏豆腐のセットだよ。出てくるのが早いから。フライ系はまだ食べたことないんだ……ふふ、楽しみだね」 嬉しそうな戸澤の顔からは、フライをもらうつもりらしいことがうかがえる。 店の様子を見回すと、奥のテーブルでは定年退職者らしき男性たちがビールを囲んで宴会をしていたり、サラリーマンが一人で黙々と食べていたり、さっきすれ違ったようなOLたちのグループがいたりと客層はさまざまだ。ランチにしては遅い二時過ぎなのに、さっき空いていた大きなテーブルも、またたく間に新しい客でいっぱいになる。 注文してから二分もたっただろうかというとき、かつおのたたき定食が運ばれてきた。 「鶏豆腐あとで来ますからね」 「はあい」 醤油と、もう一つ別のたれが入った小皿が置かれ、大きな丼に山盛りの白いご飯と、大量のぶつぎりのかつおのたたきが盛られた皿がきて、狭いカウンターがいっぱいになった。金子は丼ご飯を見て、少な目にと注文しておけばよかったと後悔した。 「ごめんね、時間ないから先に食べる」 「どうぞ、気にしないでください」 かつおの厚みはびっくりするほどで、その下の大根の千切りもパリッとして新鮮だ。それを戸澤が大きな口で美味しそうに食べているのはとても幸せな光景だった。食べているときの戸澤は生命力にあふれていて、この人と一緒に居れば安心だと根拠もなく思えてしまう。 「脂がのってて美味しいよ。つばさも食べる?」 戸澤は他人の目などまったく気にせず、かつおにわさびと醤油をつけて自分の箸で金子の口に運んだ。どぎまぎしながら醤油を服につけないように気を付けてかつおを一口で頬張る。赤身の旨さとほどよいこってり感が最高だ。 「美味しい……」 そのときおばさんがご飯の丼よりも大きな丼を持ってきた。豆腐と春菊と鶏肉のスープが入っていて、れんげもついている。 「はい鶏豆腐お待たせ」 「わあい。これが美味しいんだよね」 金子に向ける笑顔は近頃いちばんの輝きだ。 戸澤は豆腐を箸で器用につまみ、たれに付けてからご飯にのせてふうふうとして口に入れた。冷たい刺身と温かい具だくさんのスープを組み合わせて定食にするなんて、季節を問わず客をやみつきにさせるアイデアだなあと金子は感心した。 そうしているうちにしだいに空腹に耐えがたくなってきた。戸澤はもう食べ終わろうとしているのに、カキフライが出来上がる気配はまったくない。 「カキフライ遅いねえ。時間なくなっちゃうから別の物頼む?」 「別の物って?」 「海鮮丼。この前間違えてぶり照り定食を頼んじゃったらいつまで待っても来なくて、おばちゃんに、急いでるときは海鮮丼にしてって言われたんだ」 「でも今さらカキフライ取り消せないんじゃないですか?」 「あとで来たら二人で食べればいいよ。とりあえず海鮮丼頼もう」 戸澤の言うとおり、海鮮丼はものの一分で金子の目の前に置かれた。 丼ご飯の上に、まぐろや甘海老、いくら、イカ、帆立、かつお、ぶり、あじなどが美しく盛られている。そして赤だしがついていた。 「すっごく美味しそう! 最初からこれにすればよかった」 金子は添えられた大量のわさびを半分だけ醤油に溶かして具に回しかけ、一口食べるごとに感動しながら海鮮丼を味わった。白いご飯は炊き立てで柔らかく、すし飯ではないからかえって刺身がおかずになって食が進む。普段なら残している量の丼ご飯もぺろりと平らげてしまった。 「美味しいよねえ、海鮮丼。いつも迷うんだよ。結局、鶏豆腐がつくかつかないかで勝敗が決まるんだ」 食後のお茶をすすりながら戸澤がしみじみとつぶやく。実際に名物のメニューを食べてみて、この店に戸澤が足しげく通う理由が金子にもよくわかった。これからはきっと二人で常連になるだろう。店員のおばさんが二人がお兄さんではなくお姉さんであることにいつ気付くか楽しみだ。 海鮮丼を食べ終わってもカキフライはまだ来ず、あと十五分で戻らなければならないという時間になった。ぶらぶら歩いていけば劇場まで七、八分はかかる道のりなので、本当はもうそろそろ店を出たいところだ。 「愛さん、もうカキフライはいいですから」 言いかけたそのとき、おばさんが大きな皿を持ってきた。 「お待たせしてすいませんね」 皿の上のカキフライを見て、立ち上がりかけた尻が再び椅子に戻る。 「ご飯と味噌汁どうします?」 金子が断るより早く、戸澤が答えてしまった。 「持ってきてください、大至急。あとお漬物も」 「少な目にしとく?」 「普通で」 戸澤は今から一人前を食べる気満々だ。 「やったあ、カキフライだ。ソースかけるね」 この皿がボリューム満点なのは、フライだけではなく千切りキャベツとトマトサラダまでのっているからだ。 金子はさすがにご飯は食べられず、キャベツをお供にしてカキフライを一つだけ食べた。これも刺身に負けず劣らずの美味しさだ。戸澤はものの五分で残りの全てをたいらげ、ごちそうさまでしたと手を合わせた。 「お残しはだめなんだよ、この店」 言い訳のようにそう言って、カウンターの上に代金を置く。しめて三千三百円だ。 「あと、おつりもなるべくないようにしとくの」 「すみません、私千円札がなくて……」 「おごるよ。つばさと来たからカキフライ食べられたんだもん。今日のランチは最高だったね」 満面の笑顔で親指を立ててみせる戸澤に、金子も笑い返すしかなかった。これからはこの店に来るときは海鮮丼一択だと心に誓いながら。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |