花ものがたり 銀座案内

【銀座一丁目】


 もう三月も末だが、夜になればまだ冬の名残で革の上着が必要なほどの寒さだ。
 その夜、国立銀座歌劇場で上演されている松団公演が千秋楽を迎えた。終演後に催される恒例のファンミーティングを終え、劇団員の帰り支度が整ったのはいつもよりかなり遅い時刻だった。

「疲れたなあ。粟島、今日は銀座に泊まって明日ゆっくりコーヒーでも飲んで帰らへん?」
「いいですね」

 松団準トップ男役の粟島甲子(あわしま こうこ)は、一も二もなく上司の魅惑的な提案に乗った。
 銀座に泊まろうと提案した粟島の上司、松団トップ男役の才原霞(さいばら かすみ)は、ほんの二か月ほど前から粟島の恋人でもある。年齢は粟島より三つ上だが、舞台での何事にも揺るがない自信と実力とは裏腹に、プライベートでは放っておけない子供のような危なっかしさがあった。粟島はそんなところにひかれ、仕事中は必要以上にそばにいて同じ時間を過ごしている。
 しかし仕事が終わった後も翌日まで一緒にいたことはまだ数回しかなかった。それもお互いの家に泊まっただけで、ホテルに泊まったことはない。

「ホテル、どこにしますか? 帝国ホテルか、ペニンシュラか……」

 携帯電話を取り出しながら尋ねると、才原は呆れたように眉を寄せた。

「そんな贅沢な」
「じゃあどこがいいんです」
「ホテルウエスト」

 その答えを聞いて粟島は思わず非難する口調になってしまった。

「十分贅沢じゃないですか。それにウエストなんて今からじゃ空いてないでしょう」

 才原が口にしたそのホテルは、各部屋がすべて違うテーマのインテリアで統一され、一部屋に一人ずつ専用のバトラー(執事)が付くという、名高い老舗のホテルだった。接客へのこだわりを貫くために当然部屋数は少ない。泊まる当日に電話してたやすく部屋が取れるとは思えなかった。

「……実はな」

 才原は肩に背負った大きなバッグをぶつけるように粟島のほうに顔を寄せた。

「予約してあるねん」


 めっきり人通りも少なくなった深夜の中央通りを、粟島と才原は、京橋方面に向かってぶらぶら歩いた。このあたりのショーウィンドウは一晩中明かりを消すことがない。小さなスポットライトをあびて輝くバッグや靴を眺めながら広い石畳の歩道を肩を並べて歩くのは、全国的な有名人である二人にとって滅多にできないウィンドウショッピングだった。
 劇場からゆっくり歩いて一丁目にあるホテルにチェックインしたときには、時刻はすでに深夜十二時近くになっていた。

「お部屋の窓のカーテンは閉めておきました。他に何かご要望がございましたらなんなりとお申し付けください」

 荷物を部屋まで運んでくれた感じの良い壮年のバトラーが会釈をする。この男性に前もって言っておけばバスルームのアメニティから朝食の紅茶の濃さまで好み通りにしてくれるのだ。
 しかし才原は営業用のスマイルを浮かべてこう言った。

「チェックアウトするまで部屋に誰も来させないでください」
「かしこまりました」

 バトラーが部屋に荷物を置き素早く去るのを見送ってから、才原はさりげなくドアに鍵をかけた。その手を見た瞬間、粟島の胸は躍った。
 これから朝までは二人だけの時間だ。
 この時間を用意したのが才原だということが、粟島をさらに有頂天にさせていた。才原は甘え上手な可愛い恋人ではあるが、照れ屋で、劇団代表という立場もあって人の視線を気にする。二人連れでの外出はほとんどせず、自宅に閉じこもるのが好きなのだ。才原にとっても今夜は特別な夜なのに違いない。
 リザーブされた部屋は、調度などには年季を感じるものの新しいホテルにはない広々とした空間が心地よかった。粟島はすぐに大きなクローゼットを開いてハンガーを手にした。

「才原さん、上着」

 脱がせたジャケットをハンガーに掛け、それからブラウスもストールと一緒に掛ける。最後にパンツ用のハンガーを取り、センターラインを綺麗に合わせてスラックスを吊るした。

「ありがとう」

 才原は下着姿のままでそそくさとバスルームへ行った。その間に粟島も服を脱ぐ。
 付き合い始めてから約二か月の間に、部屋に入ると二人ともまず着ているものをすべて脱ぐのが習慣になっていた。だからバトラーに、あらかじめカーテンを閉めておくように、そして人を遠ざけるように頼んでいたのだ。このホテルでは朝食を部屋でとることができるが、裸でくつろいでいるところへドアベルを鳴らされたのではたまらない。
 粟島は携帯電話の電源を切り、一糸まとわぬ姿になるとキングサイズのベッドに入った。大きな柔らかい枕が疲れた体を受け止めてくれる。
 二十八日間の公演が終わり新たな作品の稽古が始まるまでの束の間の休みは、誰にとっても嬉しいものだ。そのうえに、いちばん楽しい休みの前日の夜を才原と二人でホテルウエストで過ごせるとは、なんという贅沢だろう―――粟島は自分の顔がニヤついていないかどうか部屋の鏡で確かめなければと思った。
 だがその余裕もなく、バスルームから小走りに才原がベッドへもぐりこんできた。上半身は裸だが、何やら劇画調のイラストが描かれたボクサーショーツを履いている。

「あぁ寒い寒い」
「こっちに来てください」

 粟島は広すぎるベッドの中で身を寄せ合えるように腕を伸ばして才原を抱き寄せた。
 ところが才原はいつものようにべったりくっついて来ない。わずかの距離を残して隣に大人しく横たわったまま、ちらと上目使いに粟島を見ながら小さな声で囁いてきた。

「あのな、抱いて欲しいねんけど……今日、パンツ脱げへんねん」
「知ってますよ」
「張り切ってホテルまで予約したのにカッコ悪くてごめん。がっかりさせたやろ」

 粟島はもう遠慮なく才原の体を抱き締めた。そんな不安そうな潤んだ瞳で見つめられたら、失ってはいけない理性を失いそうになってしまう。

「そんなこと気にしないでください。女性は下着をつけてる方がセクシーですよ」
「ふうん。いつもすっぽんぽんで色気なくて悪かったな」
「そういう意味じゃなくて」

 粟島は笑った。その震える腕の中で、才原もふくれっ面をにやりと崩す。
 自分が笑うと才原がとても嬉しそうな顔をするのが粟島は好きだった。才原はいつも粟島を笑わせようとしていろいろなことをしてくるが、養成所に入って以来身に付き過ぎた鉄壁のポーカーフェイスが邪魔をして、なかなか素直に笑うことができない。だから二人でいるときはなるべく自然に笑うように努力している。そうすれば才原も必ず一緒に笑ってくれるからだ。

「まあ、このパンツも色気ないけどな」
「どこで買ったんですか?」

 前にも後ろにも派手なイラストの描かれたショーツはとても才原が自分で選んだとは思えなかった。今までちらりと見たことのある他の下着は、実用一辺倒のTバックばかりだったのだ。

「この前実家から送ってきたんや。実家の近くに安い衣料品の店ができて、そこでいっぱい下着とか買ってストレス発散してるらしい、うちの親」

 送られてきた衣類をそのまま着ている才原の親孝行に粟島はまた笑った。

「今度一緒に買いに行きましょう」

 粟島が誘うと才原は難色を示した。

「そんなカップルみたいなこと、ようせんわ」
「じゃあ、通販でも」
「ん……それならいいけど……、粟島はどんなんが好き?」

 想像の中で才原のスレンダーな体に着せていたのは純白のブライダルランジェリーだったが、とてもそんなことは口にできないので、適当に濁して答える。

「ロマンチックな雰囲気で、色は淡い感じで」
「何や、そんなん絶対自分は着ないくせに。ずるいなあ」

 不満そうな才原の黒髪をなだめるように撫で、粟島はキスで自分のずるさを誤魔化した。
 もちろん才原が望むならロマンチックな下着をつけるのもやぶさかではないが、似合わないだろうという自覚はあるので、やはり鑑賞するだけの立場でいたい。

「才原さんは私と違って女らしいのが似合いますよ。胸の形も良いし」
「脇腹に水ぼうそうの痕があんねん」
「目立ちませんよ、全然」

 本当は正確に知っている、その痕のある場所を手のひらでそっと覆い隠し、粟島はもう一度才原のこめかみに口づけた。遠慮していたらしい才原の両腕がやっと首に回ってきて、いつものべったりと密着した体勢に落ち着く。才原の吐き出した大きな溜息が粟島の鎖骨に当たった。

「粟島はなんでそんなに優しいん」
「何ですかいきなり……」
「人生でこんな優しい人に会ったことない」

 粟島は言葉につまった。自分のことはどちらかというと冷たい性格だと思っている。今まで付き合ってきた相手にも時には優しい言葉をかけたが、計算ずくの態度でしかなかった。
 才原といるときにだけ湧いてくるこの温かい気持ちは、自分でも意外と言うほかはない。

「モテる女は優しいんですよ」

 ようやくそれだけ返すと、才原は眠そうな声でふうんと相槌をうった。
 今日、才原は、体調も最高ではない中で、午前十一時からと午後三時からの二度の公演を終え、午後七時からのファンミーティングをこなし、テレビ放送の収録も終えてこのホテルまで歩いてきたのだ。体の芯から疲れきっているはずだった。
 粟島は、無駄話などせずにもっと早く寝かせれば良かったと反省した。

「もう寝ましょう。電気消します」
「なんで。せっかく粟島といるのに寝るのもったいないわ」

 お泊り遠足の夜に一晩中寝たくないとごねる駄々っ子のように、才原は唇を尖らせた。

「勘弁してください。私が寝られないじゃないですか」

 粟島はかまわずベッドサイドの操作盤に手を伸ばして部屋の明かりを消した。スプリングのきいたベッドとさらりとした高級シーツの寝心地に、粟島の頭と体も強い力で眠りの海に引き込まれそうになる。
 だが、そのとき才原が囁いてきた一言で粟島の眠気は吹き飛んだ。

「なぁ……、抱いていい?」
「は?」
「もったいないやん。せっかく初めて二人でホテルウエスト来てるのにただ寝るだけやなんて」

 なんと、才原にとっては疲れより「もったいない」が上回るらしい。
 もったいないから抱かせろという理屈は、粟島には予想外もいいところだった。別に抱かれることが嫌なわけではないが、疲れているときに無理をするとろくなことがないのは、体が資本の役者としての経験からよくわかっている。

「ホテルは寝るところじゃないんですか……。とりあえず今日は寝て、明日の朝考えましょう」
「逃げる気やろ」
「そんなこと」

 否定しているときに才原の手が突然体を撫で回し、粟島は思わず身を引いた。

「ほら図星や」
「逃げませんよ本当に。いい加減にしてください、子供じゃないんだから……」
「粟島すぐそういう言い方する」
「寝てください」
「い・や」

 なおも粟島の首筋にキスマークをつけようとしてくる才原に、粟島は反射的に怒鳴ってしまった。

「寝なさい!」

 深夜の静かなホテルの空気が、男役のハスキーな怒鳴り声でビンッと震える。才原は一瞬大人しくなり、それからすぐに喉の奥で笑い出した。

「これでウエストにお出入り禁止になったら粟島のせいや」
「才原さんが聞き分けがないからですよ」
「わかった。ほな、おやすみのチュウしてくれたら寝る」

 粟島はそのありがたい交換条件を受け入れ、キスの途中でもう眠ってしまった才原を、暗闇の中でもう一度抱き締めて眠りについた。

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