花ものがたり ―葵の章―

【9】


 結局、長谷川はくるみ割り王子の役を演じてそれをきっかけにブレイクし、脇役路線から一気にスター候補生に躍り出た。
 初めて花水木歌劇団を見る観客でもどんなスターがいるかを把握できるようにと芝居の前に上演される顔見世(かおみせ)舞踊ショウで、スクリーンに名前を出して短い一場面を持たされるという待遇になったのだ。
 長谷川も劇団員である以上、一度はこうなることを夢見なかったわけではないが、いざ実際に自分のための衣装や楽曲、振付が用意されるとそのプレッシャーは想像を絶するものだった。たった一人で踊りながら歌って大劇場の空間を埋めるなど、養成所に入学したときからしみついた劣等生コンプレックスが抜けきれない長谷川には、恐怖以外の何物でもない。
 それでも、両親や友人や昔から応援してくれるファンが大喜びしてくれていることだけを支えに、ひたすらに稽古を繰り返してどうにか舞台を務めた。

「葵ちゃーん! 今日も最高だったよ!」
「明日のマチネ、20列上手に視線ちょうだーい!!」
「長谷川さん、今日のお化粧と髪型かっこよかったです!」

 楽屋口から劇団本部ビルへ向かう専用バスに乗り込むほんの短い時間に、出待ちのファンが声をかけてくる。バスに乗る足を止めずに会釈しながら微笑み返し、手を振ると、女性たちはキャーと叫んだ。長谷川にはこれがまったく理解できない。

「お疲れ様。どうしたの? 浮かない顔をして。具合でも悪い……?」

 バスの隣の席に座った降旗が、溜息をついた長谷川の顔を覗き込んできた。

「いえ、大丈夫です。叫ばれるのに慣れてなくて……」

 降旗はふふっと楽しそうに笑った。

「葵はスターさんだものね。ショウの場面を持つ気分はどう?」
「毎回、寿命が縮んでます」
「私は誇らしいわ。だって、やっと葵がとっても素敵な男役さんだっていうことがたくさんの人にわかってもらえるんだもの」
「そうでしょうか」

 つい強い口調になってしまい、長谷川は額を抑えて気持ちを整えようとした。花水木歌劇団が求める人気スターに自分がなれるとは思えないし、それが目的で入ったわけでもない。長谷川の希望は、あくまでもここを出たあとに女優として演劇の世界で活躍することなのだ。

「私なんかを抜擢するなんて、間違っているような気がしますが」
「あら、どうして?」
「奏子さんは、私が何もできなかったときから知っているからひいき目で見てくださってると思いますけど、他の人たちから見れば私なんて佳代ちゃんの出番を奪う邪魔者ですよ」

 佳代というのは長谷川の一年後輩で、アイドル的なルックスとヒップホップダンスのうまさが若い観客に大人気の男役である。花水木歌劇団のスターとは、きっと佳代のような人のことを言うのだ。

「何言ってるの。葵のほうが好きな人だっていっぱいいるのよ」
「まさか」
「ねえ、葵、もしかして自分が人気ないと思ってる? 葵、前に、婚姻届が送られて来るって言ってたでしょ? 私、他の男役さんからそんな話聞いたことないわよ。前にも言ったと思うけど、葵はとっても素敵なのよ、ファンが本気で恋しちゃうくらいに。私の言うことちゃんと信じなさい」

 だからといってそんなことが長谷川にとって嬉しいわけではない。降旗でさえ自分の思いをわかってはくれないのだ、と長谷川は絶望的な気持ちになった。

「人気なんてどうでもいいです。ファンに恋されたくもないし」
「葵……」

 降旗は真面目な顔になって、声を潜めた。降り出した雨にバスの窓が濡れて、赤信号の光がしずくを光らせる。

「私たちは、お客様に喜んで頂くために舞台に立っているのよ。葵はそうじゃないの?」
「ちゃんとしたクオリティの舞台を作ることと、ファンにキャーキャー言われることは別でしょう」
「ファンを馬鹿にしちゃいけないわ。あなたのファンはあなたの本当の価値を見抜いている。だからあなたを好きになったのよ」

 降旗の細長い指が、膝の上で握り締めた長谷川のこぶしを包んだ。

「真ん中に立つ自信がないからって、スター扱いが気に入らないなんてことを言わないで、もっと大きな男役になりなさい」

 その一言は、長谷川の心を深くえぐった。自分が本当にやりたいことは、スターになることでもなく、ファンを喜ばせることでもない。だがこの劇団では、それは許されないことなのだ。
 バスが目的地に到着するまで、長谷川は黙って窓を流れる雨粒を眺めていた。
 バスを降りた後、家にまっすぐ帰る気にもなれず、残っているスタッフがいたら立ち話でもしようかとなんとなく稽古場の方へ歩いていると、ちょうど更衣室の扉から帰り支度を整えた同期の倉橋真名が出てきた。

「真名、遅くまで稽古お疲れ」
「葵! どうしたの? 竹団公演中だよね」

 ブランドのロゴが派手に入った大きなバッグを抱えた倉橋は、赤いふちの眼鏡をおしあげて葵のところへ駆け寄ってきた。

「うん、今から帰るところ、なんだけど」
「私も。葵、時間あったらちょっとお茶しない?」
「お茶〜?」
「……へえ、じゃあ酒でもいいよ」

 にやりとする倉橋と一緒にタクシーに乗り、恵比寿にある倉橋が行きつけだというバーへ立ち寄った。
 カウンターに腰かけ、すらりと背の高いドイツビールのグラスを合わせて乾杯する。

「それで恋人にダメ出しされてへこんじゃったんだ」
「奏子さんは恋人じゃないから。それにダメ出しというかその逆に励まされてへこんだっていうか……まあ、私みたいなのは最初からこの劇団に入っちゃいけなかったんだろうなって。ファンがうざいなんて、口が裂けても言えないじゃん」

 倉橋は眉毛をぴくりと動かして目を大きく見開いた。

「葵、ストイックすぎるんじゃないの? ファンがキャーキャー言ってくれるの嬉しくない?」
「全然。だって私、女優になりたかったけど他のところ全部落ちたから仕方なく男役になったんだもん」
「そうなんだ! でもさ、女優になるって目標があるならなおさら、ここにいる間にもらえるもの全部もらっとけって」
「もらえるもの……?」

 倉橋はどこからどう見てもチャラ男のしぐさで足を組んで長谷川の方へと身を乗り出してきた。

「女優になるんだったら、歌もダンスもできないよりできたほうがいいに決まってるっしょ? 広い空間を自分一人で埋められるパワーも、メイクやヘアセットの技術も、衣装のセンスも、ここで鍛えられるものは全部鍛えまくるの。それに、今のうちに絶対葵に付いてきてくれるファンをたくさんゲットしとけば、葵が動員力のある女優になれるってことじゃん? そういうのがやめたあとに役立つんだよ」
「なるほど……」

 倉橋の発想はとても彼女らしくポジティブだ。どんな経験でも、やめた後の女優人生の肥やしになると思えば、積極的に乗り越えられるような気がする。

「真名の言う通りかも。ちょっと前向きになれた」
「よかった! ……で、こっちの話も聞いてほしいんだけど」
「もちろん」
 
 それからたっぷり30分、今年梅団に配属された倉橋のお気に入りの一年生がいかに可愛いかという話を聞かされ、長谷川は十分気分転換をして帰宅したのだった。
 その次の公演から、長谷川は、役の男女に関係なくオーディションを受けるようにした。この劇団で学べる機会をすべて使わなくてはもったいないと思うようになったからだ。
 そのおかげで、男役の長谷川に本気で恋するようなファンも淘汰され、過度なスター路線に乗せられることもなくなり、長谷川は安定したマルチプレイヤーの位置に収まった。

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