花ものがたり ―葵の章―

【10】


「じゃあな、お疲れ。明日寝坊して遅刻するなよ」
「佐野君もね」

 有楽町でテレビ局のディレクターと小劇団の演出家と別れた後、長い夜の散歩に疲れた体をひきずって、長谷川はやっと本部ビルへたどり着いた。そのまま2階の更衣室へ行きロッカーを開ける。今夜は演劇仲間との飲み会があるからと荷物になる着替えなどをロッカーに置いたままにしていたのだ。これを持って帰って洗濯し、新しい稽古着に取り換え、明日の朝八時半にはもう一度ここへ来て着替えて稽古をしなければならない。
 大きなスポーツバッグを抱えて終電に間に合うよう走る気力もなく、長谷川は、タクシーを呼んでもらおうと警備員室へ向かった。上階が劇団員たちの生活する寮になっているこのビルには、24時間常駐の警備員がいるのだ。
 だが、警備員室へたどり着く前に、長谷川の足は完全に止まった。
 常夜灯だけがともる薄暗い1階フロアの、打ち合わせなどに使われる喫茶コーナーの横を通り過ぎようとしたとき、はっきりと声が聞こえたのだ。

「知ってるよ。奏子さんが葵のこと好きなのは」

 長谷川は息を止め、観葉植物の陰に身を潜めた。
 この声は間違いなく金子つばさだ。今ここを通りかかったのは本当にタイミングが悪すぎた、と真っ先に長谷川は思った。金子が降旗を口説こうとしている。しかも聞き捨てならないセリフを使って。
 現在竹団の準トップをつとめている金子は数年前からトップスターの戸澤愛(とざわ あい)と付き合っているが、その戸澤は次回公演で退団してしまうので、もしかしたらそれをきっかけに別れたのかもしれない。
 長谷川は衝撃にうずくまったまま動けなくなった。が、続く言葉はさらに長谷川を仰天させた。

「私の次のトップは葵かもしれないから、そのときに相手役になりたいなら無理にとは言わないけど……」

 思わずどういうことですかと叫びそうになって長谷川は片手で口を押えた。「私の次のトップ」ということは、まず金子がトップに決まったということを意味する。それは十分予想できていたことだが、なぜそこで突然長谷川の名前が出てくるのだ。

「いえ、三年後には私はもう15年目ですから、葵の相手役としては年を取りすぎていると思います」
「そんなことないよ。まだ定年まで5年あるし、相手役はトップが選ぶんだもの。葵ならきっと奏子さんを指名すると思うな。……あ、まずい、こんな時間だ。もう質問はないよね? 私の考えていることはすべて伝えたから、とりあえず家に帰って一晩ゆっくり考えてみて」
「はい。すみません、公私混同も甚だしいですよね……」
「いやいや、トップコンビは夫婦にも例えられるくらいだし、信頼関係が大事でしょ。奏子さんが心から納得してくれてないと」
「ありがとうございます」

 やっと話を理解した長谷川は、歩き出した二人に見つからないようしばらくやりすごした後、ゆっくり立ち上がった。
 金子が次のトップに決まり、降旗を相手役に指名した。
 しかし降旗は返事をためらっている。それも、どうやら自分のせいらしい……。
 その上金子は、長谷川が将来トップになる可能性が大きいような口ぶりだった。いったいどういうことなのか。
 翌朝、目覚ましのアラームよりも早く目が覚めてしまい、長谷川はそのまま早めに家を出た。本部ビルの食堂でモーニングセットのトーストには手をつけずコーヒーだけを飲んでいると、ふと隣に大きな影がさした。

「おはよう、葵ちゃん。それ、食べないの?」

 トーストを指さす長い指の主を見上げると、竹団トップスターの戸澤愛だった。戸澤は海外のトップモデル並みのスタイルとエキゾチックな美貌、そして洗練されたダンスで多くの熱狂的なファンを持つ、竹団のカリスマ的存在だ。朝一番からトップスターに声をかけられ、長谷川はさすがに緊張して背筋を伸ばし、会釈した。

「おはようございます。ええ、今朝は食欲がなくて。召し上がりますか?」
「うん、ありがと」

 戸澤はミルクの入ったグラスを片手にそそくさと隣に座ってトーストをつまみ上げ、大きな口にほおばった。この人が毎朝ここで朝食をとっているのは知っていたが、まさかこうして人の残したものにありついているとは予想外だった。
 そういえば、戸澤は金子の恋人で、同居しているという噂もある。昨夜金子が話していたあの件について何か知っているかもしれない。

「愛さん。あの、ちょっとお伺いしたいことがあるんですが……」
「なに?」

 ゆっくりと瞬きする戸澤に、長谷川は怒られることを覚悟して慎重に尋ねた。

「竹団の、次の三役のことなんですけど……」
「あ、そっか、おめでとー!」

 長谷川がどう質問したらいいかと悩む間もなく戸澤はミルクを持った腕を広げてハグしてきた。長谷川は薄っぺらいTシャツの下に何も着ていない戸澤に抱きしめられて当惑しながらも自分の予感が当たっているらしいと冷静に考えた。

「つばさも喜んでたよ。準トップが葵ちゃんならとっても頼もしいって。ああ見えても寂しがりやだし意外とプレッシャーに弱いとこあるから面倒みたげてね」
「……私が、準トップなんですか?」
「あっ。ごめん……言っちゃいけなかったんだ。葵ちゃんお願い、つばさには内緒にして……!」

 必死な戸澤を大丈夫ですとなだめながら、長谷川は急激に高まる胸の動悸を抑えられなかった。

「それからそれから、総務部長に呼ばれたときも、えっ知らなかった〜!驚き!って演技してくれる?」
「わかってます。心配しないでください」
「ああよかったぁ……」

 ほっとした勢いであっという間にトーストを食べ終えた戸澤に、長谷川はもう一つだけ質問した。

「それで、娘役トップはどなたですか?」
「……それは言えない」
「つばささんにさっきのことばらしますよ」
「うぅ……、しょうがないなあ。相手役は奏子ちゃんにお願いするって言ってた。でもほら、奏子ちゃんは葵ちゃんと仲良しさんでしょう? 奏子ちゃんがつばさと葵ちゃんのどっちを選ぶか、見ものだね」
「すみません失礼します」

 長谷川は食堂を飛び出した。
 何の間違いか知らないが、自分が準トップになったからといって降旗がキャリアアップの大きなチャンスを捨てることなどあってよいはずがない。娘役トップはただのヒロイン役者ではなく、役職であり、退職金も年金も平の団員とは違うのだ。そもそも、なぜ降旗は昨夜すぐに返事をしなかったのだろうか。
 長谷川は本部ビルの通用口で出勤してきた降旗を待ち受け、荷物を奪い取り、驚く降旗の手を引っ張って開店前の喫茶コーナーへと連れて行った。

「どうしたのよ、葵」
「奏子さん、今すぐつばささんにお返事してください。相手役になりますって」
「葵……、何言って……」
「愛さんから全部聞きました。どうしてすぐに引き受けなかったんですか?」

 降旗はポニーテールを揺らして俯き、寂しそうに微笑んだ。

「葵は、私が他の誰かの相手役になってもいいのね」
「いいに決まってるでしょう! 奏子さん、お母さんに楽させたいんじゃないんですか? 自分からキャリア捨てるなんて絶対ダメです。私も精一杯支えますから、断らないでください」
「うん。そうね。ごめんなさい」

 降旗はポケットから見覚えのあるラベンダー色のハンカチを取り出して目と鼻に当てた。長谷川は担いでいた降旗のバッグをテーブルに置き、慌てて降旗の肩を抱いた。

「私に謝らなくたっていいのに……、泣かないでください」
「わかってるの。葵は私に好かれても困るだけだって……わかっているけど、どうしようもないの。初めて会ったとき……受験生なのに試験官に自分の意見をはっきり言える葵が眩しくて、憧れて、その時から好きだった。葵も知ってると思ってた」

 確かに知っていた。ずっと気づかないふりをしていたが、お互いに特別な存在だいうことは暗黙の了解だと思っていた。男がいると知ったときにはショックで震え、金だけの関係だとわかって安心した。ここは自分の居場所ではないと卑屈になる長谷川を、降旗はいつも信じて励まし続けてくれた。それはかけがえのない愛情だとわかっていたのに、ずっと先輩後輩の関係に甘えていたのだ。

「家に来たときキスしてくれて嬉しかったし、私のために怒ってくれたのも嬉しかった。どんどん素敵な男役さんになっていくのを見るのも、実力を認められて準トップになったのも……葵は私の喜びの源なの。もし相手役になれるなら、葵のお嫁さんになりたかった」

 降旗は声を震わせて長谷川の腰に抱き着いてきた。白いニットのワンピースを通じて湯気の立つような熱を感じ、長谷川はありったけの勇気を振り絞った。

「それは違うんじゃないですか。私、公私混同はしないので。奏子さんと演技でキスしたくありません」

 降旗は長谷川のシャツの肩先に額を押し付けたまま頷いた。

「わかったわ。葵がそう言うなら、トップ娘役の任、お引き受けします」

 そして潤んだ瞳で長谷川を見上げる。近すぎる距離感は昔からあまりにも馴染みのもので、瞼を伏せ唇を重ねても自然すぎて何も感じなかった。

「ちょっとちょっと、誰に向かってお引き受けしてるの。娘役トップと準トップが結ばれてトップスターが置いてきぼりってひどくない?」

 呆れて笑う金子の声が、熱しすぎた空気を一瞬で爽やかに変える。
 さすがの降旗も、長谷川から離れて恥ずかしそうにハンカチで汗を拭った。長谷川も真っ赤になった顔を深めのお辞儀で誤魔化した。

「おはようございます。失礼しました」
「愛さんに聞いたよ。葵にしゃべっちゃったんだって?あの人。本当にしょうがないんだから……」
「怒らないであげてください」

 口止めしたのに自分からばらしてしまうところがいかにも戸澤らしい。金子はにやりと笑った。

「ラブラブなところ申し訳ないんだけど、とりあえず新生竹団最初の公演は、私たちはロシア公演で葵は赤坂小劇場で新作の一人芝居だから、しばらく離れちゃうけど、よろしくね」
「一人芝居……?」
「そう。今度から、花水木歌劇団は舞台設備のない病院とか老人ホームも慰問することになったから、一人芝居と朗読のレパートリーを増やすんだって。そのために葵が準トップに選ばれたんだよ。葵が高校時代に全国学生演劇コンクールで優勝したのって、一人芝居だったんでしょ? すごいよね、一人で優勝するなんて。まさに日本一の女優じゃない」

 長谷川は重なる驚きに固まった。きら星のごとくスターを並べて作るエンターテインメントで観客を集めているこの劇団では決して実現しないと思っていた一人芝居が上演され、しかも自分がそれを演じることができるとは。

「葵、おめでとう。楽しみだわ」

 金子の横で晴れやかに微笑む降旗を見て、長谷川は、夢は叶うものなのだ、と思った。

おわり
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