花ものがたり ―葵の章―

【8】


 その年の秋、竹団では新作のミュージカルを上演することになり、いつものようにオーディションが開催された。
 このミュージカルは、さまざまなおとぎ話のキャラクターたちが登場し、誰もが知っているストーリーのその後にキャラクターたちがどう生きたかを描いた大人のファンタジーである。桃太郎にかぐや姫、クララやくるみ割りの王子、ねずみ、きつね、ブリキの木こりやライオンなど、めちゃくちゃだがバラエティに富んだ役柄が用意されていた。台本が配られてからというもの、竹団の団員の間ではどの役のオーディションを受けるかで持ち切りだ。

「本読むと、このくるみ割りの王子にいちばん共感するんだよね……外見にコンプレックスがあってクララの愛が信じられないところとか、ダンスで気を引こうとして体を壊すところとか」

 長谷川は配られた台本にしるしをつけながら、親友の演出助手・佐野を相手に食堂のカウンターでどの役を狙うべきか検討していた。

「だけど、役としてはやっぱり王子だから最後はクララと結ばれて終わるじゃない? 外見はともかく心は二枚目だし、立ち回りもあるし。歌劇団的に言えば準主役レベルだと思うから、私が受けるのはちょっとまずいかな」
「え、なんで? 受けてみればいいじゃん。俺は葵にぴったりだと思うけどなあ」

 佐野にそう言われて、長谷川は驚いた。普通、竹団全員の役柄のバランスと作品全体の仕上がりを考えれば、長谷川のようなキャリアの男役にこの役をやらせるなど考えられない。

「そりゃ受かるとは限らないけど、私が演じるなら、七つの頭を持つねずみの王のほうが……」
「じゃあどっちも受ければ?」
「どっちもって、役が真逆すぎるじゃない」

 ねずみの王は、くるみ割り王子に退治されて瀕死の状態で生き延び、王子に恨みを抱いているという役柄だ。

「葵なら真逆の役でも演じられないことはないだろ?」
「……佐野君、何言ってんの。私がいつもオーディションでは一つの役に絞ってること知ってるでしょ」

 佐野は、かゆそうに頭をぽりぽりとかいた。稽古がスタートするこの時期は、佐野は毎日深夜まで稽古場にいてシャワーもろくに浴びずに働いているのだ。

「それはキャリアが浅すぎたからだろ? だいたい、花水木の団員はみんな、全部の役を受けるくらいの気合いでオーディションに臨むもんなんだよ。一つに絞って絶対その役を手に入れることができるのは葵くらいだよ。やってみたい役があるんだったら、結果なんて考えずに挑戦するのが当たり前なの」

 そして大きなあくびをして、

「ごめん、ちょっと仮眠とってくる」

と食堂を出て行ってしまった。
 残された長谷川は、台本を抱えたまま考え込んだ。佐野の言うとおり、5年目になったのだから、もっといろんな役にチャレンジしなければ役者としての幅が広がらないのかもしれない。オーディションというのは演出家に自分の演技を見てもらうことができるチャンスでもあるのだ。
 しかし、自分が王子様という役柄を演じるということが長谷川にはどうしても受け入れ難かった。王子様などというものは、例えば金子つばさのようなルックスが完璧で明るくて魅力的な人気者が演じるものだ。敵と格好良く戦って美しい姫と結ばれる……そんな自分など想像もできない。
 やはりねずみの王を受けよう、とぼんやり考えながらコーヒーを飲んでいると、突然背後から声をかけられた。

「葵、隣いい?」

 その声と、ほぼ同時に隣の椅子にふわっと腰かけた赤いスカートからたちのぼってきた薔薇の香りの主は、やはり降旗奏子だった。

「佐野さんと相談していたの? オーディション、役は決まった?」
「はい。佐野君はくるみ割り王子がいいって言うんですけど、私に王子様役は似合わないと思って……ねずみの王にしようかなと思ってます」

 そう答えると、降旗は、あら、と意外そうに瞬きをした。

「葵は私の王子様なのに」

 長谷川はコーヒーを噴き出しそうになった。

「……っ、何なんですか、いきなり……」
「ごめんなさいね、大丈夫?」

 降旗はくすくすと笑いながらハンカチを取り出した。幸い、こぼしてはいなかったのでありがとうございますと丁重に辞退する。

「……あのね。私、引っ越したの。これが新しい住所」
「えっ」
「あのマンション、彼に返したわ」

 長谷川は差し出されたはがきを受け取った。そこには中央区の住所が書いてあった。降旗は、あの彼氏に買い与えられた高級マンションを出て一人暮らしを始めたらしい。

「もしかして、別れたんですか……?」
「ええ。契約終了よ」

 長谷川は驚きはしなかったが、心配になった。自分が降旗の家のベランダでやらかしたことが引きがねになったのではないだろうか。そうだとすれば、降旗があの男にひどいことをされはしなかっただろうか。今さらながら、自分の短慮が悔やまれる。

「あの、こんなことを言うのはおこがましいですが、私が軽率なことをしてしまったせいでしょうか……? だったら本当に申し訳ありません!」
「違うわ、あれは半年も前のことじゃない。決めたのは私よ」

 降旗は思いきり頭を下げている長谷川の肩を優しくたたいて顔を上げさせた。

「彼もよく竹団の舞台を見に来ていたから、お芝居で本当にキスすることもあるって知っているし、ふざけていたのはわかっているから大丈夫。葵のせいじゃないわ。……でも、ある意味では葵のせいかしらね」
「ある意味……?」
「言ったでしょ、王子様だって。葵のキスが本当の私を目覚めさせてくれたの」

 冗談めかして微笑む降旗に対し、長谷川はもう何の遠慮もなく疑問を全面的に顔に出した。

「実は私、中学生のときに両親が離婚して、急に家が貧乏になったのよ。習っていたバレエやピアノも全部やめたから、たまたま花水木に受かってからは、葵と同じように芸事に苦労したわ。なんとかここまで来たけれど、実家の母に少しでも多く仕送りをしたくて、ついああいう男性にすり寄ってしまったの……でももう自分に嘘をつくのはやめたわ。他人のお金で幸せにはなれないって気づいたから」

 降旗の身の上話は、驚くことばかりだった。降旗の全身から醸し出される優雅な雰囲気や上品な話し方から、よほどの上流階級の出身だと思い込まされていた。だが、それらは本当は鍛錬のたまものだったのだ。

「そうだったんですか……」

 長谷川がその一言しか言えずに黙ってしまうと、降旗は椅子から立ち上がりながら腰をかがめた。
 そして、なんと、長谷川の額に軽く唇を押し当てたのだ。

「……奏子さん……!?」
「王女様のキスでねずみは王子様に変身しましたー。……それじゃ、また家に遊びにいらっしゃいね」

 一枚のはがきと薔薇の香りを残して走り去る気まぐれな王女の後姿を見送りながら、長谷川は、参りましたと呟くしかなかった。

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