花ものがたり ―葵の章―

【7】


 ベランダに出て外の空気を吸うと、それだけで少し冷静になれた。シャツ一枚しか着ていない体には、夜の風が少し肌寒く感じる。床がウッドデッキになっているベランダには簡単なテーブルと椅子のセットが置いてあった。そのテーブルの上に携帯灰皿とタバコの箱をのせ、長谷川は立ったままふうっと煙を吐き出した。
 頭を空っぽにして、降旗と金子のために元気を出さなくては……そう自分に言い聞かせていると、窓の開く音がした。

「葵、これ羽織って。風邪ひいたら大変だから」

 追いかけてきた降旗が、ざっくりとしたカーディガンを肩にかけてくれた。

「すみません。ありがとうございます」
「どういたしまして。……大丈夫?」

 そっと背中に手が添えられて、小さな優しいささやきが聞こえ、長谷川はどうしても言わずにはいられなかった。

「奏子さん、あの人と婚約してるんですか?」
「いいえ」
「じゃあどうして、あんな身内みたいな言い方を? もしかして、いとことか」
「違うわよ」

 降旗はとんでもないと手を振りながら笑った。

「婚約者でも親戚でもないなら、……すみません、失礼なことを言っているのはわかってますが……、あんなふうに奏子さんを軽んじるような言い方、私は我慢できません」

 花水木歌劇団の団員は、なりたくてなれるものではない。倍率二十倍以上の入学試験に合格した後、二年間の研修という名の選考があり、さらに団員になってからも並みの仕事とは段違いの向上心と努力が必要とされる。オフの時間さえも国家を代表する女優としての品格を求められ続けるのだ。
 将来有望な団員である降旗に向かって、その仕事と本人の価値を一顧だにせず、誰と結婚するかで決まるなどとよく言えたものだ。降旗はあの男とは全然違う、日本の宝石のような存在なのだ。
 長谷川がよほど悔しそうな顔をしていたのか、降旗は肩を抱いてなだめてくれた。

「ありがとう。葵のその気持ちだけで十分よ」

 どうしてあんな男と付き合っているんですか、という言葉が喉まで出かかったが、自分が意見する筋合いのことではないと長谷川は飲み込んだ。すると、降旗は長谷川の肩を抱いたまま耳のそばでかすかな声で言った。

「婚約者でも親戚でもないんだけど、パトロンなの。このマンションも彼が買ってくれた」
「奏子さん……」
「私の方が、ずっと嫌な女よ」

 まさか、降旗はあの男を利用しているだけだというのか。それなのに亭主面して所有物のような発言をしているとは、なんだか哀れなような寂しいような気がして、長谷川はふっと苦笑いした。
 そのとき、部屋のカーテンが動いて、ちらりと中の様子が見えた。カーテンの隙間から、降旗の彼氏がこちらをじっと見ている。彼の目からはきっと、降旗が長谷川を抱きしめて何かささやいているように見えているだろう。彼は立ち上がって窓へ近づいてきた。
 長谷川はどうしようもないほど、「やってやれ」という衝動に駆られた。
 タバコをもみ消して片手を降旗の腰に回し、真横にある相手の顔に向き合って、唇を触れ合わせた。男役として舞台で美しいキスシーンを見せる技を鍛えてきただけあって、あまりにも自然だったので、降旗自身さえ普通に応えてしまってしばらくしてから、

「あら、まあ……」

と照れたほどだった。
 長谷川は目の端で彼氏がカーテンを閉めたのを確認してから、深刻にならないようにニヤリと笑って見せた。

「安心してください。ちょっとノリでしてみたかっただけなので」
「葵も悪い女ね。でもこんなこと上手にできるようになってるなんて、ちょっと生意気よ」
「意味が分かりません」

 火を消したタバコを入れた携帯灰皿とタバコの箱を胸ポケットにしまって、長谷川は、肩を震わせて笑い続けている降旗と一緒に部屋へ戻った。
 リビングでは金子を中心にゴルフ話が盛り上がっていたが、降旗の彼氏は前よりも口数が少なくなっているように見えた。自分の女を女に取られるというのは、自信満々な男にとってかなりの衝撃に違いない。

「つばささん、そろそろお暇しませんか?」
「ちょっと待って、連絡先交換するから」
「さっきお名刺を頂きましたよ」
「あ、そうか。じゃあ、あとでお礼を……」

 長谷川の目配せに、何かあったとすぐに察して、金子はにこやかに立ち上がった。
 彼氏の友人二人がハイヤーで金子と長谷川を送ってくれ、金子と長谷川は劇団本部ビルの玄関で車を降りて見送った。こんなとき絶対に自宅は知らせないのが暗黙の了解だ。

「それで、あの人は奏子さんの何なの?」

 一緒に地下鉄の霞が関駅へ向かって歩く道すがら、勘の良い金子は聞いてきた。

「パトロンだそうです」
「やっぱりねえ。道理で偉そうだと思った」
「気づいていらっしゃったんですか?」
「結構多いよ、ああいうの。劇団員を連れて歩いて自慢したいって輩がいるんだよ、金持ちには」

 金子の口ぶりからも、あの彼氏を良く思っていないことが伝わってきた。長谷川はこっそり打ち明けた。

「私も気に障ったんで、ベランダでキスして見せつけてやりました」
「ええっ!!」

 金子は地下鉄の階段で大声をあげて急に立ち止まった。長谷川は周囲の目を気にして焦ってしいっと唇に指をあてた。このあたりでは終電が近付けば近づくほど、人通りは多くなる。

「葵って……、奏子さんとその、その……」
「何でもないですよ。養成所時代に憧れの上級生だった、ってだけです」
「本当に?」

 金子は両手を腰に当てて、階段の上段にいる長谷川に迫ってきた。

「ほんとですよ!」
「でもそういえば合同公演のときから、奏子さんと葵ってただならぬ雰囲気を醸し出してるなと思ってたんだよね」
「本当に違いますから。あのときはカップルって設定で組んでいて、奏子さんは雰囲気づくりがお上手なので。それに距離が近いんですよ、誰に対しても、昔から……」
「まあねえ。でもキスしたんでしょ? 芝居じゃなく。夜のベランダで、星空の下」
「……そういう言い方されると……」

 結局、地下鉄が表参道駅に着くまで、長谷川は金子からの厳しい追及を受けるはめになったが、おかげで金子の寂しさは紛れたように見えたのが救いだった。

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