花ものがたり ―葵の章―

【4】


 入団して四年目の正月に、長谷川は初めて松竹梅三団合同公演の出演者に選ばれた。
 通常の公演は団単位で行われ、出演者はだいたい70名ほどになる。劇場の機構もその人数に合わせて作られているため、合同公演だからといって200人あまりいる全団員が出演できるというわけではない。各団から30人ずつ選ばれたメンバーが出演するのだ。
 ここに選ばれるのが長谷川の大きな目標のひとつだったが、その目標は意外なほど早く達成された。

「あっ葵、いたいた!」

 久しぶりに会った同期の倉橋真名が、人でごったがえす稽古場で長谷川のパーカーの腕を捕まえてくる。梅団に配属された倉橋は、芝居でもショウでも目立つ役を掴んで飛ぶ鳥を落とす勢いだと竹団まで噂が聞こえていた。
 
「お互い合同公演出演おめでとう。葵と一緒に出られるなんて夢みたいだ」
「まったく。倉橋主任が毎日居残り稽古に付き合ってくれたおかげだよ」
「ほんとにそうだよ……、なんて話してる場合じゃない、葵、お姫様が探してたぞ」
「え?」
「奏子さん。あっちの廊下にいる」

 差された方を見ると、開いたドアの向こうにちらりと降旗奏子の姿が見え、長谷川は大きく息を吸った。今日この稽古場に来るときから緊張していた原因の大部分は、降旗と再会したら何を話せばいいのかわからなくて人見知りしてしまいそうだということだった。

「何してんだよ、早く行けよ」
「ああ」

 柄にもなくもじもじしていることを倉橋に悟られたくない一心で、長谷川は意を決して人混みをかき分け廊下へ出た。器用な彼女らしく髪を美しく編み込んだアップスタイルにまとめた降旗は、選抜された劇団員たちの中にいても真っ先に目に飛び込んでくるほど華があった。
 長谷川が廊下に出ると降旗はすぐに気づき、

「葵、おめでとう!」

とはしゃいだ声を上げながら会釈した長谷川の首に両腕を投げかけ抱きついてきた。不意打ちに思いきり動揺する長谷川を、廊下にいる劇団員たちが笑ってひやかしてくるが、どうすることもできない。

「卒業式のときの約束守ってくれたのね。すごいわ、本当に」
「奏子さん、ちょっと」

 離れてください、とは口では言わずにそっと相手の腕を取ってさりげなく距離を置く。降旗の距離感の近さは入団後ますますエスカレートしているようだった。

「この間の赤坂小劇場の舞台、見たわ。葵の役、とっても素敵だった」
「おじいさんですよ」
「そこがいいのよ。まだ24なのに、おじいさんにしか見えないなんて……しかも渋くてダンディだなんて」

 すっかり興奮している様子の降旗を持て余して、長谷川は廊下の端へ端へと退いていった。少しでも周りの視線から逃れたい。

「そういうつもりで演じたんじゃないんですけどね……」
「もちろんお芝居も良かったわよ。葵のお芝居はその人っていうものが浮き上がってくるの。だから魅力的で、どんな役でも好きになってしまうのよね。演じているっていうことを忘れさせてくれて、世界に引き込んでくれるの」
「ほめすぎです」

 花水木歌劇団では、主役の三人以外の配役はすべてオーディションで決定される。長谷川は配属されて最初の公演で、とにかく役をもらいたいという一心から受けられるだけオーディションを受けた結果、一人で6役ものセリフのある役を演じることになってしまい、すぐに"オーディション荒らし"というあだ名がついた。舞台成果の面でも、人間関係の面でも、他人の役まで奪って独り占めにすることはあまり良しとされない。
 このときの気まずさに懲りて、長谷川は慎重に役を選ぶようになった。自分がその役をやることによって作品に最大の効果を生み出せるような、自分にしかできない役を確実に射止めるようにしたのだ。
 その甲斐あって、長谷川は竹団の演技派若手男役として着々と足場を築き、四年目にして合同公演の選抜メンバーに選ばれた。
 
「そんなことないわ。ファンの方にも言われるでしょう?」
「ファン、ですか……」

 長谷川は思わず溜息を漏らした。最近の長谷川を悩ませているのはまさにそのファンからの反応なのである。
 降旗は心配そうに長谷川の正面に回って顔を覗き込んできた。

「どうしたの? 何かトラブルでもあった?」

 ファンについての話題は繊細なものだが、他団で、しかも娘役という利害関係のない降旗になら相談できるかもしれない、と長谷川は思った。

「男役って、こういうものなんですかね……」
「なあに?」
「……この前、また婚姻届が送られてきたんです」

 恥ずかしさをこらえて告白すると、降旗の細い肩が大きく震えて噴き出したのがわかった。ますます恥ずかしくなってささやくような小声になる。

「芝居を見てくれて、私を応援してくれるのはとってもありがたいと思うんですけど、好きですとかデートしてくださいとか抱いてとかどういうつもりなんでしょうか。二枚目の役をやってるわけでもないのに……。こんな不細工な私に対して『かっこいい』ってどう考えても違うと思いませんか?」
「……思わないわ」

 降旗は、微笑みながらも重々しく宣言するように答えた。そして、廊下の壁に長谷川を押し付けるかのように距離を詰めてささやいた。

「ファンの方が好きになるのは葵が素敵だからよ。もちろん役者としても素晴らしいけれど、同時に花水木歌劇団の男役としても滅多にいない逸材よ。エキゾチックで、セクシーで、スタイル抜群で。初めて会ったときから思ってたわ」

 長谷川はただ首を横に振った。生まれてこのかた、自分の容姿に足を引っ張られた経験しかないのに、急にそんなことを言われてもびっくりしたのと恥ずかしいのとでまともな返事ができない。

「そんな……。私、女の人に好きになられても困るし……そういうファンサービスはできません……」
「葵はそのままでいいの」

 パーカーの両肩をぽんぽんと叩いて励まされ、長谷川はもう何も考えることができずに頷くしかなかった。ぼうっとしている長谷川の右手を、降旗がさりげなく取って引っ張る。

「行きましょう。時間よ」

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