花ものがたり ―葵の章―

【3】


 入学式の翌日から始まった養成所での暮らしは、長谷川にとって想像を絶する修行だった。
 いちばん大変なのは、バレエ・ジャズダンス・日本舞踊・声楽などの実技の授業をまともにこなすことができないことだ。同学年の生徒たちはそれぞれの得意分野で選び抜かれた精鋭ばかりで、この上何を学ぶことがあるのかと思えるほどすべてが達者な生徒もいる。
 その代表格が、成績一位で合格した倉橋真名だ。

「葵〜、それ冗談でやってる?」
「うるせえ黙れ」

 放課後の居残りレッスンに付き合うのは学年の主任である倉橋の役目だった。高度な授業にまったくついていけない長谷川に、初歩から手取り足取り教えてくれるのだが、次第に忍耐の限界に達していつもこんなやりとりになる。
 長谷川はなぜかこの学年一位の優等生に気に入られ、出会った最初の日に「私たち二人で話すときは男同士ってことにしようよ」と提案された。さすがは男役を目指す者の鑑、日常生活を即興芝居にしてしまおうというのだ。長谷川は、そのとき初めてこの学校での生活を面白そうだと思えた。
 しかし、演劇以外まったく経験のない長谷川には一回一回の授業を乗り切ることだけでも精一杯で、さらに学年末には昇級試験という大きな壁も立ちはだかっていた。この試験で及第しなければ、養成所をクビになってしまうのだ。

「演劇以外はほんっとに何もやったことなかったの?」
「見りゃわかるだろ」
「よくここ受けようと思ったな」
「自分でもそう思う」

 花水木歌劇団の舞台を見たことはあったが、長谷川にはそれほど魅力的とは思えなかった。商業演劇としてのパフォーマンスは見事だが、どうしても男役が不自然に感じたのだ。台本にも深みがあるとは思われず、要するに長谷川が理想としている演劇とは違うものだった。
 しかし舞台に立てるチャンスはここにしかない。100パーセント受からないだろうと思われた試験にせっかく合格したのだから、石にかじりついても劇団員にならなければ。

「もっと腰入れて! 視線右上! 右の肩落とす! ああそうじゃない……」

 倉橋が駆け寄ってきて体の形を直してくれる。
 日舞の稽古で二時間たっぷり汗をかいた後、教室を出て寮へ戻ろうとした二人は、廊下で呼び止められた。

「倉橋、長谷川、ちょっと待って」

 振り向いて一礼した長谷川たちを、男役見習いの制服を着た二年生五、六人が取り囲んだ。

「長谷川、バレエが得意なんだって? フェッテ回って見せてよ」
「上手な人の見て参考にしたいからさ」
「一回でいいから。長谷川先生、お願いします」

 長谷川は困惑した。上級生の言っている意味がまったくわからない。浴衣を着ているのにバレエを見せろというのもおかしいし、フェッテという言葉も知らなかった。だが無言でいるのはまずいと内心焦っていると、隣の倉橋が緊張の面持ちで背筋をぴんと伸ばしたまま口を開いた。

「失礼します。長谷川は踊れないので代わりに私が回りましょうか」

 しかし、上級生たちはにやにや笑いを止めなかった。

「私たちは長谷川に言ってるの」
「そう、お前が踊ったって意味ないじゃん」

 長谷川はやっと、二年生たちが、"まったく踊れない一年生"に興味を持ってからかいに来たのだと気づいた。倉橋が手を強く引いてきて、逃げようとしているのだと悟り、顔を見やった瞬間、聞き覚えのある声が廊下に響いた。

「何してるの? その子、私の担当なんだけど」
「奏子……」

 男役見習いたちはいっせいに囲みを解いて後ろへ下がった。制服のスカーフを見事な花の形に結んだ降旗奏子がゆっくりと歩み寄り、同学年の生徒たちに向かい合う。

「長谷川さんの歌の稽古を見るように夕子に言われてるの。忙しいから後にしてくれる?」
「……わかったよ」

 からかいに来た上級生たちは、仕方がないというように去っていった。

「ありがとうございました」

 深々と礼をする倉橋にならって長谷川も頭を下げた。その頭をぽんぽんと軽く触れられ、顔を上げると降旗が笑っていた。

「すっかり有名人ね。今度あんなこと言われたら、10回連続回ってぎゃふんと言わせてやればいいわ」
「……練習、します」

 長谷川は絶対にそうしてやると固く誓った。数ある実技科目の中でもいちばん苦手意識が強かったバレエへのモチベーションが一気に高まる。降旗は倉橋に向かって優しく言った。

「倉橋さんお疲れ様、悪いんだけど先に帰っていてくれる? 長谷川さんと話があるの」
「はい。ではお先に失礼します」

 倉橋はまったくの無表情で会釈したあと、長谷川だけにわかる瞬間に眉をぴくつかせて帰って行った。長谷川は笑いをこらえた。降旗は二年生の中でも抜群に美人で、もう一年生の中に何人もファンがいるほど憧れの的なのだ。
 降旗は、さっきまで長谷川たちが日舞を練習していた教室の扉を開け、鏡の前へと長谷川を招き入れた。

「入学式の日、私の部屋まで来てくれたんですって? 怒られちゃったでしょう、ごめんなさい。今年できたルールだからうっかりしてたわ」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしてすみません」

 あのときばったり出くわしてしまった主任の井之口が、後で703号室の住人に釘を刺したのに違いない。きっと怒られたのは降旗のほうだろう。

「これからは用があるときは私が長谷川さんのお部屋を訪ねるからよろしく。……そうそう、スカーフの結び方」

 そう言って降旗は自分のスカーフをするすると外し、長谷川を手招きして日舞練習室の床に膝をついてぺたりと座った。そして磨き込まれて黒光りしたひのきの床にスカーフを四角く広げ、まず中心に角を合わせる折り方からひとつひとつ丁寧に説明してくれた。

「これを首にかけて……、あら、汗かいてるじゃない。風邪ひくわよ」
「いいです、汚れますから……!」

 慌てて遠慮する暇もなく降旗はポケットからラベンダー色のハンカチを取り出し長谷川の首の汗を抑えてくれた上、細く畳んだスカーフを浴衣の首に結んでくれた。次は自分でやってみて、と言われ、教えてもらいながら結んでみると、少しいびつな花の形が出来上がった。

「あとは練習ね」
「はい。ありがとうございました」

 自分がつけていると穢れてしまうような気がして急いで外したスカーフを返しながら、長谷川は先ほど廊下で聞いたことを思い出した。

「あの、さっきおっしゃった歌の稽古って……」
「口実に決まってるじゃない。歌は夕子に直接教わって」

 降旗はさらりと言ってのけ、見惚れるような手際でスカーフを自分の首に結んだ。

「……そのスカーフ、良い香りがします」
「少しだけ香水をつけてるの。内緒よ」

 微笑みの形の薄い唇に当てられた指先が、長谷川に今まで感じたことのない生気を与えた。この人をがっかりさせないために上手くなりたい―――その思いが、長谷川に厳しい毎日を乗り越えさせてくれたのだった。
 それから一年後、長谷川はどうにか昇級試験をパスした。主任の倉橋が必死で教師に頼み込み、赤点科目の追試を受けさせてもらったのだ。それでも点数は足りなかったが、本試験と追試の間のわずか一週間でかなり上達したことが認められて、二年生の間この努力を続けるという約束でなんとか目こぼしをもらったのだった。

「奏子さん、ご卒業おめでとうございます。松団の公演、絶対見に行きますから」
「葵も進級おめでとう。本当によく頑張ったわね」

 降旗は、一年前に長谷川の汗を拭いてくれたラベンダー色のハンカチで、いつの間にか頬を濡らしていた長谷川の涙を拭った。花水木歌劇団を神のように信仰している生徒たちと違い、レッスンに明け暮れながらも養成所生活を斜めに見ていた長谷川は、自分が先輩の卒業式でこんなに泣くことになるとは夢にも思っていなかった。理性では恥ずかしいと思いながらも、もう授業の合間や放課後にこの人に声をかけてもらうことはないのだと思うと涙が勝手に溢れてくる。

「奏子さんの、おかげ、で……」
「よしよし、泣かないの。二年生になるんでしょ」

 優しく抱きしめられて細く柔らかな手に背中をさすられると、この一年のいろいろなことが胸に押し寄せ、長谷川は嗚咽するほどむせび泣いた。

「必ず追いかけて来てね。同じ団にはならないかもしれないけれど、合同公演で共演できるわ、きっと。私、絶対に葵と一緒にお芝居したいの。待ってるわね」
「はい。必ず行きます」

 その誓いを守って長谷川が7位という成績で養成所を卒業し、竹団に配属されたのは、さらに一年後のことだった。
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