花ものがたり ―葵の章―

【1】


 新しいジョッキがどんどん運ばれてくるこの酒席では酌をしなくて良いので気が楽だ。
 そんなことを目の前の仲間の一人が考えているとは、周りの男性たちには想像もできないだろう。濃い髭に覆われた頬を真っ赤にした男が、テーブルにどんと肘をついて身を乗り出す。

「もう花水木やめてどっかの事務所入っちゃえよ。長谷川ならいくらでもオファーくるでしょ」
「そうそう、もったいないよ。歌って踊ってカッコつけてるだけじゃ長谷川ちゃんの実力活かせないもん。もっと芝居を評価してくれる業界があるんだからさ。うちの劇団だって長谷川ちゃんだったらいつでもゲスト来てくれて大歓迎だし」

 頬のこけた金髪の痩せた男が短くなったタバコをもみ消しながら相槌をうつ。髭の赤ら顔はテレビ局のディレクター、痩せている方は今人気急上昇中の小劇団の主宰だ。
 長谷川葵(はせがわ あおい)はハイボールのジョッキに薄い唇をつけながら隣にいる同僚の佐野武(さの たけし)と目だけ見合わせて肩をすくめた。
 長谷川も佐野も、日本で唯一の国立の劇団、花水木歌劇団に所属している。長谷川は竹団に入って10年目の男役、佐野は入団同期の演出助手で、若い頃から苦楽をともにし芝居談義を戦わせてきた。二人があまりに仲が良いので恋人同士だと思っている劇団員もいるが、そういう種類の感情が存在したことは一度もない。だからこそ続いている絆だとも言える。

「ちょっとちょっと、うちの貴重な演技派男役引き抜かないでくださいよ」

 佐野が持ち前の調子の良さでディフェンスよろしく長谷川をかばう。その腕をたばこの空き箱でぽんぽんと叩きながら髭のディレクターは野太い声で笑った。

「毎年二十人も新人採用してる金持ち劇団が何言ってんだよ。劇団員って言ったって会社員と同じなんだから専属契約があるわけじゃないんだろ、長谷川がその気になればやめるのは自由だろうさ。な?」

 水を向けられ、長谷川はうなじの毛先を引っ張りながら首を傾けた。実は最近、月に一度は劇団をやめたいと思う日がある。ここ一、二年の竹団公演では長谷川は癖のある脇役専門になっていて、演じ甲斐はあるものの、幅の狭い役者だと思われているのではないかという不安があった。オーディションのたび、まだ入団して数年の若手が将来の主役候補として扱われているのを横目に、どんなに努力しても自分はそういうタイプではないと思い知らされるのは精神的にかなりきつい。

「……外でやりたくないわけじゃないけど、やめる勇気はない」

 長谷川は、今度こそ禁煙するつもりで先週から吸っていなかったたばこを、佐野に手を伸ばして要求した。しぶる佐野からさらに火も貸してもらい、指先に挟んでふっと煙を吐く。

「だよなあ、公務員だもんな。親に賛成される唯一の芸能界、それが花水木歌劇団さま」
「テレビ局もでしょ。終身雇用と年金は手放せない」

 長谷川は皮肉に答えて軽い口調で自嘲した。確かに、こんな甘い役者生活を送れるのは花水木歌劇団の団員だけだ。役者としてもう一歩抜け出せないのはそのサラリーマン根性のせいなのか、そんな温室の中でさえ役職につけないのはやっぱり才能がないからなのか……悲観的な問いが酔った頭にとめどなく浮かんでくる。

「長谷川ちゃんも安定求めるんだ。女だなあ。公務員なんて一生やってもたかが知れてるっしょ。芸能人は一獲千金よ?」

 アルバイトで食いつなぎながら実力で這い上がってきた小劇団の主宰が言いたい放題を言ってくる。表面上は同じ役者でも、叩き上げの男とエリートの長谷川には根本的な違いがあって、お互いに少しずつ相手を見下しながらバランスを取っているのだ。
 長谷川は、花水木歌劇団に採用される前に多くの芸能事務所や劇団のオーディションを受けたが、一社も引っかからなかった。そのことが長谷川の意識のどこかで弱みになってしまっている。自分は『花水木歌劇団の男役』だから舞台で生きていけるのであって、所詮身一つでは戦えないのだ、と。

「すいません、俺らそろそろ帰らないと」
「明日も稽古?」
「うん、8時半から」
「うわ、学生みたいだな! 俺もう午後からしか動けねえ体になっちまったわ。お疲れ」

 ディレクターと小劇団主宰はタクシーに乗り合わせて別の街へと去って行った。
 長谷川と佐野は有楽町の飲み屋街から劇団本部のある霞が関まで酔い覚ましに歩いて帰ることにした。ライトアップされた国会議事堂を見物できるルートは、この春先の季節の夜にはなかなか気持ちの良い散歩道なのだ。

「ねえ佐野君。私たちのやってることって、本当に芸術的価値があるのかな。単なる女子供の娯楽なのかな」
「女子供より大事なものがこの世にあると思う?」
「それはそうだけど」

 佐野のこういうところが長谷川は好きだった。佐野はまだ自分の作品を大劇場にかけたことはないが、たとえ下働きのような演出助手の仕事でもこの劇団の一員であることを自覚と誇りをもって受け入れているように見える。

「葵の言いたいことはわかるよ。俺たちのレベルが広い世界で通用するのかってことだろ」
「そう、それ。みんな確かにベストを尽くしてる。だけどそれだけじゃダメじゃない? 仮にも国立の劇団なんだし、外国に出して恥をかくようなものは作れない」

 花水木歌劇団ではショウだけは座付きの演出家が手掛けることになっているが、それ以外は毎回の上演作品を国内外の劇作家や演出家に委嘱しており、業界では花水木歌劇団の依頼を受けるということが一種のステイタスになっていた。だから演目のレベルは比較的高い水準を維持しているはずなのだが、年齢も性別も外見も狭い範囲の人間しかいないために表現に限界があると長谷川は感じていた。年輪を重ねた老人も子役もおらず、整った外見の人ばかりでは、しょせんままごとになってしまいリアリティのある世界は作れない。

「俺はそうは思わないな。花水木歌劇団っていうのはひとつの日本文化そのものだからさ。葵だってほかの団員たちだって立派な芸を持ってる。それを恥ずかしいと思うなら外国のほうがおかしいよ」
「……なるほどね」

 自分がやっているのは一般的な芝居とは違う特殊な芸能なのだ、と長谷川は改めて感じた。考えてみれば演劇の世界に憧れてこの場所に入ったときから長谷川はその違いに悩み続けてきたのだった。


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