【9】 ターニングポイントとなったあのファンミーティングの日から、二年の月日が流れた。 準トップだった磯田未央は梅団のトップスターになり、同時に井之口夕子も前例のないダブルトップに就任した。倉橋真名は、同期の後藤舞が娘役に転向して磯田の相手役になったこともあり、梅団を支える男役としてますます存在感を増していた。 高村も演出助手のアドバイスを受けてセリフのある役をもらえるようになり、少しずつ人前に立つ自信が芽生えて、今では顔見世舞踊ショウの若手紹介場面に抜擢されるまでになっている。 冬の寒さも本格的になってきた十二月中旬の夜、高村は同期の坂下の住む恵比寿のマンションの一部屋に招かれていた。 「アンリ、お誕生日おめでとう!」 「ありがとう。何かごめん、忙しいのに……」 「私とアンリの仲で何をいまさら遠慮してるの。ほんとはレストランでも予約したかったけど、この時間だから家になっちゃって悪いなと思ってるのに。ほら、ケーキ食べよう!」 目の前には、可愛らしいピンクの皿に載せられたモンブランがある。高村の好物だからと買っておいてくれたのだ。坂下は自分も金色のフォークを取っていただきますと勢いよくケーキにつきさした。 「そういえば大丈夫? こんな遅い時間に食べて……。梅華この前ダイエットしてるって言ってたよね」 そのとたん坂下は思いっきりむくれ顔になった。 「そういうこと言わないでよ、せっかくルールを破れるチャンスなのに。友達の誕生日は特別なの」 「ごめん、ほんとごめん。食べよう、いただきます」 高村は笑ってケーキを口に入れた。ねっとりした栗ペーストと洋酒のきいた冷たい生クリームがよく合って美味しい。幸せそうに食べる坂下の姿を見るのも嬉しかった。ちょっとふっくらした頬や、柔らかそうな二の腕は坂下のチャームポイントだと高村は思うのだが、本人はどうしても痩せたいらしく、気持ちの良い食べっぷりを見るのも久しぶりだったのだ。 そのとき、突然、ガンガンガンとマンションの部屋のドアを叩く音がした。高村はびくりとして思わず坂下にしがみついた。あのストーカー事件があってから突然の訪問に敏感になっている。坂下は軽く高村の手に触り、落ち着いて、とささやいた。 「真名さんだよ。直接ドアを3回叩くのが私たちの合図なの。今日アンリの誕生会するって教えたから」 倉橋と坂下が、自分たちの合図を決めているほどお互いの部屋を訪ね合っているというのは初耳だった。高村は少し意外に思いながらも、知らない人ではないとわかってほっとした。 「真名さんいらっしゃ……どうしたんですか!?」 玄関へ出て行った坂下が叫び声を上げたので、高村は急いで駆け付けた。部屋の中へと転がり込むように入ってきた倉橋は、こめかみに大きな青あざをつくっていた。それに顎先にも血の跡がこびりついている。 「ちょっとね……休ませてくれる? 今一人になりたくなくて」 「入ってください。ベッド、横になっていいですから。アンリ、バッグ持って」 坂下に言われるまま、高村は倉橋の持っていたバッグと、坂下が脱がせたコートも受け取った。倉橋の壊れた眼鏡がバッグの外ポケットに突っ込まれている。倉橋は坂下に支えられるようにしてベッドに腰かけた。顔色が真っ白だ。 「真名さん、何があったんですか? お顔のほかは怪我してませんか?」 「いや、頭を一発殴られただけ。体は無事だから心配しないで」 手際よく湿布やら保冷剤やらを取り出して応急手当をする坂下に比べて、高村はコートとバッグを抱えて立ち尽くしているだけだった。今までに見たことのない、憔悴した倉橋の表情がショックで声も出ない。坂下に言われてようやくマグカップに紅茶と蜂蜜をいれて差し出した。 「熱いので気を付けてください」 「ありがとう。……あ、アンリ、誕生日おめでとう。ごめん邪魔して」 「いえ、そんなこと……。……あの、いったい、どうしたんですか?」 熱い紅茶を一口すすった後、やっと倉橋は話し始めた。 倉橋はその日の夜、懇意にしている俳優の主催する忘年会に参加していた。その俳優とはドラマで共演したことがあり、お互いに職業柄相手に興味を持って、時折会員制のレストランで食事をしたり彼の家へ遊びに行ったりする関係になっていた。 「食事の後にさ、みんなで別室でビリヤードするからって誘われて行ったら、なんか明らかに怪しい葉巻みたいなのを吸ってて。馬鹿正直に断ると逆に危ないと思ったから、トイレに行くって嘘ついてこっそり帰ろうとしたの。そしたら玄関でそいつの仲間に捕まってちょっとバトっちゃった。まあ、一対一なら私のほうが強いけどね」 あまりのことに高村は絶句し、その後で恐怖に背筋が凍った。一歩間違えば倉橋が逮捕されて劇団がスキャンダルの渦中に突き落とされるか、そうでなくても一生を棒に振るような事態になっていたかもしれない。 坂下は厳しい表情で溜息をついた。 「もうあいつとは別れろって言いましたよね!? 今後、絶対連絡取っちゃだめですからね。スマホ貸してください! 私が消しますっ!」 「わかったわかった、私もさすがにもう会わないよ。花水木歌劇団の団員として、付き合っていい人間じゃない」 その会話を聞きながら、高村は床にへたりこんでいた。よく無事で帰ってこられたものだ。アクションのできる男役を目指して養成所に入る前から空手と合気道を習っていたという偶然がなければ、何をされていたかわかったものではないのだ。 倉橋はしばらくすると顔色を取り戻し、立ち上がった。 「ありがとう梅華、もう大丈夫。今日は家に帰って寝る。明日の稽古には出るから」 「その前に絶対病院行ってくださいね。頭打ってるんですからちゃんと検査しないと。頭だけじゃなくて体も、知らない間に怪我してるってこともあるかもしれませんし、診てもらったほうが良いですよ」 坂下はまるで妻か母親のように口やかましく言い、高村にも命令した。 「アンリ、真名さんちに泊まっていってあげて。怖い思いしたばっかりなんだから誰か一緒にいたほうがいいよ。万が一、夜中に具合悪くなったとき困るし」 「……うん……真名さんが良ければ……」 「正直、来てくれたら助かる。眼鏡壊れちゃってあんまりよく見えないんだよね」 荷物を持って腕を貸してやりながら、高村は倉橋と共に六階の部屋へと移動した。 倉橋が寝巻に着替える様子を高村は見ていないふりをして注意深く観察した。体にあざや傷がないかどうか気になったからだが、気が付く範囲に怪我はしていないようだった。倉橋が眠るまで見守ろうとベッドに肘をつくと、オレンジ色の羽根布団の下のこんもりした山がこちらを向いた。 「アンリ、寝ないの?」 「……このベッドに寝ると5秒で落ちるので。今日は真名さんが眠るまで見てます」 「つまんねえ。ファンミの稽古したとき以来、アンリ泊まりに来てくれないんだもん。こんなにアンリが優しくしてくれるなら時々喧嘩しようかな」 高村は珍しくカッとなって布団の上に両手をつき身を乗り出した。 「真名さん。もうやめてください、興味本位で遊び人の芸能人と付き合ったりするのは。もう少しで薬物に手を染めてしまうところだったじゃないですか」 「品行方正な男役なんかに誰が本気で惚れるかよ」 「警察に被害届出さないんですか?」 「劇団の立場を考えたら、私があの場にいたことは誰にも知られないほうがいいと思う……アンリも、黙ってて」 「男たちに暴力振るわれて、女優が顔に怪我をしたのに? あんなやつ、捕まればいいんだ」 自分の言葉に悔しさがつのり、勝手に涙が出てきて、高村はもう日頃から抱いていた思いを止められなくなってしまった。 「そもそも真名さんは、もっとお客さんに喜ばれる男役になるためとか劇団のためとか言って、24時間無茶しすぎなんですよ。仕事は仕事で区切りつけて、プライベートの時間はちゃんと自分のために使ってください。劇団員でも男役でもなくほんとの真名さんに戻って……勉強のためとかじゃなくちゃんと好きな相手と、真名さんのこと大事にしてくれる人と付き合わなきゃダメです……」 汗をかきながら言い切った高村に、倉橋は冷静な声で尋ねた。 「じゃあアンリは私と付き合ってくれるの?」 「えっ……」 「ほら。そういうところが嫌いなんだよ」 絶句する高村に背を向けて、倉橋は羽毛布団のなかで丸くなった。その後ろ姿は今まで見たことがないほど孤独に見えた。物心ついたときからすべての行動の動機が『花水木歌劇団』だったであろう倉橋からそれを取ったら、いったいどんな人間が現れるのだろう……そう思うと高村は、動かずにいられなかった。オレンジ色の掛布団をめくって強引にもぐりこみ、振り向きかけた倉橋の体を強く抱きしめる。お互いの香水と汗の匂いが交じり合ったがまったく不快ではなく、むしろほっとする心地がした。 「アンリ……」 優しい声だ、機嫌を直したかなと思った瞬間抱きついてきた体を受け止め、高村は目を閉じて、そのまま夢の世界へと落ちていった。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |