花ものがたり ―杏の章―

【10】


「本当はまだ内緒なんだけど、アンリには言っておきたいと思って。誰にも言わないでね」
「……何……? もしかして、寿退団とか…?」
「何言ってるの、そんなことあるわけないじゃない」

 桜の花のつぼみがふくらんで風の匂いが変わってきた三月上旬、高村は同期の坂下に呼び出されて銀座で軽い酒を共にしていた。
 この四月で入団七年目に入る高村は、もうじき退団する梅団トップ磯田未央の後を継いで政府の広報キャラクターを務めることが決まっていた。すでに、この夏から役所や駅に掲示する節電ポスターの撮影も終えている。
 オーディションさえまともに受けられなかった落ちこぼれが劇団の顔ともいえる存在になるなんて、時の流れは皮肉なものだ。二十七歳になった高村は舞台での経験だけは積んだがそれでも相変わらずインタビューは苦手で、引っ込み思案な性格は変わらない。そして坂下も、小劇場公演の主役などを経験し若手のリーダー的な存在になってはいるものの、昔から変わらない明るい気さくな人柄でアンリに接してくれる。
 その坂下がいつになく真剣な顔で声を低めたものだから、高村はすっかり退団と勘違いしてしまった。

「ごめん、でも良かった退団じゃなくて……」
「もう。……あのね。私、真名さんの相手役に決まったの」
「相手役って……えっと、まさか……真名さんトップになるの?」

 高村の口から真っ先に出た言葉を聞いて坂下は呆れて高村の肩を叩いた。

「まったく、アンリはおめでとうも言ってくれないんだから。私のことより真名さんなんだよね」
「だってトップだよ!? あ、ごめん……うん、梅華なら真名さんの相手役にぴったりだと思う。おめでとう」
「ありがとう!」

 以前よりもますますグラマラスに大人っぽく成長した坂下は、満面の笑顔で高村に両腕を投げかけてきた。大きなリングピアスが高村の頬に当たる。
 坂下はいつも生き生きとしてパワフルで全身から幸福感を醸し出している。機転も体力も度胸も高村が持っていないものをすべて持っている自慢の同期だ。彼女なら力強く倉橋をサポートしつつ自分自身も素晴らしい活躍をするだろう。

「それはそうと、アンリ。この前、真名さん言ってたよ。もうアンリも一人立ちできるようになったし、これからは口を出すのはやめるって。トップになって相手役ができたらそっちに集中したいしそのほうがファンの方たちも喜ぶだろうって」
「えっ……」

 表情をコントロールできないくらいのショックを受けて固まっている高村の背中を、坂下は勢いよく叩いた。

「そんな泣きそうな顔しないで。一人前って認められたってことなんだから。アンリ、いつも真名さんにみんなの前で怒られたりファンとの食事会に連れまわされたりして迷惑だって言ってたじゃない」
「……うん……」

 梅団に配属されて丸6年間の内には、倉橋の持つ強烈な輝きと熱の余波から逃れたくてしかたがなかった時期もあった。しかしそれが無くなるなんて、今は想像もできない。身の丈に合わない大役に抜擢されるたび緊張のあまり稽古場にすら入れない高村を、倉橋はあらゆる手段を使って鞭打ってくれた。倉橋が手取り足取り厳しく稽古をつけてくれなかったら、舞台に上がることなど到底できなかっただろう。
 だがトップになれば倉橋は相手役の坂下とコンビで仕事をすることになる。男役の理想を追求し続ける倉橋にとって、今までのように高村とべったり一緒にいることはトップコンビという名の“夫婦”の関係をしらけさせる“浮気”に等しい行動なのかもしれない。これからは、倉橋の暑苦しい視線と細かい指導としつこいお節介を坂下が独り占めにするのだ。

「そうだよね……私ももう真名さんに頼るのやめなきゃ……」

 しっかりしなければと思えば思うほど、声はか細く震えてしまう。坂下が呆れたように溜息をついた。

「大丈夫? アンリ、真名さんなしでやっていけるの?」
「わからない……梅華、どうしよう……。ご、ごめんね、お祝いしなきゃなのに。私、ほんとに、一人でやっていかなきゃ。今まで真名さんと梅華に甘えすぎてた……ごめん」

 小さな声でそうつぶやいた後、高村は何かに突き動かされたようにカウンターのスツールから立ち上がって店の入り口へ向かった。

「アンリ、どこ行くの!」

 坂下の声を背に店を出て目にとまったタクシーに乗り込み、恵比寿のマンションの住所を告げる。到着すると、高村は倉橋の住む六階の部屋の番号を押した。留守かもしれないという可能性はまったく考えなかったが、幸いにも倉橋は家にいた。
 ドアが開き、そこにいるすっぴんに眼鏡だけかけた倉橋の顔を見ると、高村は胸がいっぱいになり言いたかった言葉がどこかへとんでしまった。

「真名さん……真名さん……」
「どうしたの? まあ入んなよ」

 ダイニングのテーブルに座らされ、高村はようやく落ち着いた。

「何があった? もしかしてまたストーカーに追われたとか?」

 尋常ではない高村の様子に、倉橋は心配そうに声をかけてくる。この優しい声と先回りした気づかいがもう自分には向けられなくなるのかと思うと、涙が込み上げてくる。

「いいえ……」
「アンリ、コーヒー飲む? 今日の稽古、消耗戦だったよね。私も今頭パニック状態……その上に未央さんのラストシーンの演出があれでしょー、感情的にもぐちゃぐちゃでさ、ほんと疲れたわ。あ、そうだ、明日ちょっと早めに稽古場行ってショウの三場の振りを徹底的にやろう。テンポ早いからちょっとでもうろ覚えだと完全に遅れるんだよねあのナンバー」

 高村は慣れた手つきでコーヒーメーカーをセットする倉橋の姿をただぼうっと見つめていた。目の前にマグが置かれて、お嬢さんどうぞ、と言いながら倉橋がいつもの場所に腰を下ろすまで。

「アンリ。何でそんなに私の顔見てんの? 穴が開くだろうが」

 そう言われて高村の喉からやっと声が出た。

「あの、真名さん。私のこと、見捨てないでください……!」
「えっ?」
「トップになられたら仕事も忙しいし相手役もいるし団の全体のことを考えなきゃならないし、私にかまってる暇なんてないと思いますけど……、でも、でも、私は真名さんがいないと生きていけないんです……」

 ついにぽろぽろと涙があふれてきた。この劇団に入って倉橋に出会うまで、誰かと一緒に食事に行ったり誰かの家に泊まったりしたことはなかった。もし倉橋に出会わなければ、誰にも心を開けずに今でも同じ状態だったかもしれない。倉橋は高村が群舞にしか出ていなかった時からいつも見てくれていた。そして、本人や周囲にどう思われようと高村の為になると思ったことなら無理やりにでも断行した。先生でも親でもそんなことをしてくれる人は他にいなかった。倉橋が、高村の世界を外に開いてくれる唯一の人なのだ。
 感情のまま口走ってしまったことの恥ずかしさに俯いていると、倉橋の着ているスウェットの柄が目の前に迫って抱きしめられた。柔軟剤の香りにふわっと包まれる。

「……薬が効きすぎちゃったかな……いや、まあこのくらい効いてもらわないとね」
「何、ですか……?」
「いや。アンリ、そんなに私がいないとダメ?」

 高村は倉橋の腰にしがみついたままこくりと頷いた。

「困ったな」

 倉橋はティッシュを渡してくれながら言った。

「三日前にトップの内示が出たんだけど、そのとき未央さんに厳しく言われたのよ、いい加減にアンリを開放してやれって。トップが特定の若手と特別な関係になると周りの人はその若手をどう思うか、想像してみろって。言われてみれば、未央さんの言う通りなんだよね」

 今までは、倉橋はトップでも準トップでもない平の男役だった。だから高村をいくら可愛がってもその権力でえこひいきするようなことは不可能だった。せいぜいファンミーティングの自分の持ち時間を譲るくらいのものだ。
 だがトップになれば話は違う。団の三役と呼ばれるトップ・娘役トップ・準トップどうしが仲良くするのは許されても、それ以外の平の団員がトップのお気に入りになれば嫉妬の的になることは避けられない。

「それなら……みんなにわからないようにこっそり……」
「稽古場でボコボコに注意されたり飲み会に連れ回されたりせずに、こっそり私と会って何がしたいわけ?」

 高村はもう無理だと悟った。倉橋の言う通り、今まで通りの関係を続けるにはこっそりというわけにはいかない。そもそも仕事の場で世話になっていただけなのだから。

「すみませんでした……今までありがとうございました……。真名さんと梅華がかまってくれなくなったら、すごく寂しいですけど……でもしかたないですよね。一人でやっていくしか……」

 ぐずぐすと鼻をすすっていると、呆れたような溜息と一緒に暖かい手のひらが頭の上に落ちた。

「実は、方法があるんだ。ひとつだけ」
「え……、何ですか? あ、真名さんがトップを辞退するのはやめてくださいね。そんなことされたらもう私は劇団にいられません……」
「違う違う、そんなことじゃなくて。もっと前向きな解決方法だよ」

 指の長い倉橋の手が伸びてきて、優しく顔を上げさせられた。付けまつ毛もアイラインも何もしていない素の瞳が、強烈な説得力をもって高村を射抜く。

「アンリが準トップになるんだよ。私の下で」
「……はあ……?」

 冗談よりもさらにありえない夢物語に、高村は笑ってしまった。

「そんなことできるわけないですよ、いくら真名さんだって……」

 すると倉橋は、これまでに高村が見たこともないような、最高にニンマリとした得意気な笑みを浮かべた。

「それができるんだな! この日のために6年間根回ししてきたんだ。慣例ではトップとほぼ同時に内示が出るけど頼んで遅らせてもらった。アンリがいきなりそんな話を聞いたらショックで拒絶するだろうから」
「……う、嘘ですよね……? だって私、まだこの四月で7年目だし、何にもできないし、人望とか人気とかないし……」

 驚きのあまり涙はひっこんだが、今度は別の意味で体が震え始めた。
 準トップといえばオーディションを受けなくても役が当て書きされる超特別待遇だ。トップの次に重要な男役として、常に準主役を演じる。制作発表記者会見にも出るし、月刊誌にも連載を持ち、テレビの劇場中継のトークコーナーにも出演する。そんな雲の上の存在にこの六月から自分がなるなんて高村にはこれっぽっちも信じられなかった。

「七年目から三年間準トップやったら十年目になるでしょ。そんなキャリアの団員なんて珍しくないじゃん。これからひとつひとつ経験積んでいけばいいんだよ」

 どうやら倉橋は本気で言っているらしく、その口ぶりではもうすでに高村の準トップ就任は決定事項になっているようだった。高村はもう、すべての感情が許容量をオーバーして放心状態になってしまった。その耳に容赦なく倉橋の鋭い声が突き刺さる。

「私から逃れられるなんて甘いんだよ! 三年間、みっっちり仕込んでやるから覚悟しな」

 人差し指を胸に突き付けられ、さっきまで心を締め付けていた寂しさと慕わしさはどこかへ行ってしまった。

「もしかして私、騙されたんですか……?」
「人聞き悪いこと言わないでよ。まあ、梅華も一枚かんでたことは事実だけど。そもそも梅華を相手役に選んだのはアンリの同期で親友だからだし」
「……どうしてそこまでして私を……? なんで私なんですか?」

 もはや悲痛な声になってしまった。初めて会った日の飲み会で“お持ち帰り”されたときから思っていた。どうしてこの人は自分を選んだのか、と。

「言わなきゃわかんない?」 

 ため息交じりに、倉橋はテーブルに肘をついて額を支えた。ウェーブした長い前髪のせいで表情が見えない。

「梅団のみんなは、私が有望な新人を自分の支配下に置くために無理やり恋人にしたって思ってる。本当はキスもしてない純愛なのにさ。それ知ってるのは梅華だけだけど」

 高村が唖然として見つめる倉橋の口元に大きな笑みが浮かんだ。そして長い指で前髪をかきあげ、肘をついて高村に笑いかける。

「アンリ。私は君のことが好き。好きって言って悪いなら、ファンなんだ。最初に稽古場で見たときからずっとお前のファンなの。あ、誤解しないでほしいけど、別に色とか欲づくで見てたわけじゃないからね。ほら、その気になればいくらでもチャンスはあったけど結局何もしなかったし……まあ、それは今は置いといて。ファンになるのってこれという理由があるわけじゃないでしょ? なんとなく気になってどうしてもそっちに目が行ってしまって、そのうち目が離せなくなって、気づいたら泥沼にはまってる……そんな感じ」
「泥沼……」
「そう。だからアンリに構うのはやめられませーん」

 にっ、と白い歯を見せながら倉橋は高村の髪をクシャクシャと撫でまわす。その手から逃れようと、高村は背中を丸めて首を縮めた。

「……早く三年たって退職すればいいのに……」

 思わずぼそりと呟いた心の声が届いてしまったらしい。いきなり頬をむにっと掴まれた。

「あーん? さっきまで私と別れるのが寂しいって泣いてたくせにこの野郎。もうしばらく騙しときゃよかった!」

 無抵抗の高村の顎をしつこく掴んでいた倉橋の手が不意に離れ、知らないうちに頬に流れていた涙を拭ってくれた。その親指の感触とのぞき込んでくる眼差しが優しすぎて、涙はとめどなく流れ続けた。これからも一緒にいられることの嬉しさと、準トップという重荷を背負わされることへの不安と、自分のような存在に無償の愛をくれるこの人のかけがえのなさとがないまぜになって心の奥から暖かいものがあふれ出す。

「心配しなくて大丈夫。私についてくればいいんだよ。スタッフも団の人たちもファンの方々もみんながアンリの味方だから。三人で一緒に頑張ろう」

 半ば強制的に促されたようなものだが、高村は泣き笑いの顔で、はい、と頷いた。高校生のときに花水木歌劇団のスカウトに声をかけられたのも、入団してすぐパレオを拾う係に任命されたのも、偶然ではあるが今となっては運命だったとしか思えない。これが運命ならば最後まで倉橋に付いて行くしかない、と高村は思った。

「今日、泊まっていってもいいですか?」
「え。もちろんいいけど、どういう風の吹きまわし?」
「真名さんと一緒にいたいです」
「…………勘弁してよ……」

 オレンジ色のふんわりとした羽根布団に包まれて、高村は、倉橋の切なげな瞳に見守られながらいつものようにぐっすりと眠ったのだった。

おわり

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