花ものがたり ―杏の章―

【8】


 とうとう千秋楽の日がやってきた。
 公演終了後の舞台裏はファンミーティングの準備で大わらわである。高村は大部屋の楽屋で洗いざらしの髪をワックスで整えていた。思ったほどには緊張していない。むしろ、この一か月の倉橋宅での不毛な稽古の繰り返しが今日で終わると思うとせいせいするくらいだった。これからは毎日寮に帰って、荷物を片付けたりゆっくり一人の時間を過ごしたりできるのだ。
 もし今日の余興が失敗したとしても、倉橋がしつこいお節介をやめてくれるのならば、それはそれで成果ともいえる。そう考えた瞬間ふとむなしさを感じて、気のせいだと思いなおした。
 そのとき、バタバタと足音がして大部屋の入り口から倉橋が顔をのぞかせ、高村の姿を上から下まで素早くチェックしたかと思うと眉をしかめた。

「アンリ、何でそんな丈の足りないジーンズ履いてんの?」
「だってこれ真名さんのだから……」
「バカ野郎、本番で着る服ぐらい用意しとけよ!」

 昨晩も遅くまで稽古をして帰らせてくれなかったくせに、倉橋は苛立った様子で楽屋を出て行き、数分後、意外な人物を引っ張って戻ってきた。

「はい、戸澤さん早くズボン脱いで!」
「えっ。ああ、うん、大丈夫大丈夫、自分で脱ぐから」

 倉橋が連れてきたのは、竹団の団員でダンスの名手と言われている男役の戸澤愛だった。彼女は身長が175センチで高村と同じなのだ。高村はあまりに突拍子もない倉橋の行動力に茫然とした。四年も先輩の男役を、それも、それほど親しくもない他団の団員を劇場内から見つけ出して無理やり服を脱がせるなんて、倉橋でなくては考えもつかないことだ。

「アンリも早く脱いで! 交換してもらうから」
「いや、真名ちゃん、そのジーンズね、たぶん太ももが入らないと思う。浴衣貸してくれる?」
「ハイっ!」

 高村は一言も発する余裕なく、戸澤が脱いだばかりの恐ろしく長いスウェットパンツを履かされた。偶然にも、元々着ていたデニムシャツともマッチしている。

「私より似合うー。スタイルいいねえ今どきの若者は……」
「良かった! 戸澤さん、ありがとうございます。一生恩に着ます! 今度ステーキおごりますから」
「ほんと? やった。じゃあ袖から見てるね。がんばって」

 高村の浴衣を着た戸澤はにっこり笑いながら出ていった。
 倉橋は大きく息を吐きながら高村の楽屋の椅子にどっかと腰を下ろした。

「本番前にひと汗かいちまったわ。ああ、緊張してきた! アンリ、私がギター間違えても練習どおり止まらずにちゃんと歌ってよ。わかった?」
「わかってます」

 もう舞台ではファンミーティングが始まっており、ベテランの司会者・準トップの磯田未央と、初司会に抜擢された坂下梅華とが軽妙なトークで観客を湧かせている声がモニターを通じて聞こえてくる。
 すぐに高村たちの出番が近づき、高村は倉橋にしっかりと右手を握られて、舞台の袖にスタンバイした。あの大きな客席全体の視線が自分に集中することを想像すると、喉はからからになり、体は震え出す。手を握ってくれている倉橋がまったく動じていないことだけが救いだった。

「それでは次のコーナーに参ります。お待たせいたしました。全梅団ファンの彼氏、倉橋真名が、かくし芸のギターをご披露させていただきます!」
「そして今回ファンミーティングに初登場いたします入団三年目、百期生の高村杏里が倉橋のギターにのせて歌を聞かせてくれます」

 その瞬間、舞台袖にいる高村の耳にもはっきりと届くほどのどよめきが起こった。倉橋はにやにやして人気者めと囁いてきたが、聞いたことのない名前へのブーイングに違いないと高村は縮み上がった。

「お客様はご存知ないと思うんですが、この二人は梅団の中では、仲良しの二人として有名で……」
「仲良しっていうか真名が一方的にアンリを子分にしてるんだよね」
「まあそうとも言えなくもないですかね……ちなみに高村は私の同期でございます。どうぞ暖かく見守ってください」
「それでは真名、アンリ、お願いします!」

 倉橋が手を繋いだまま歩き出そうとしたので、高村は慌てて振りほどき、後を追った。手を引かれて舞台に出ていくなんていくらなんでもみっともないし観客に笑われてしまう。袖から舞台の中央までは思ったよりも距離があり、高村はなるべく客席が視界に入らないように倉橋だけを見つめ続けた。
 椅子に座った倉橋は、高村を見上げて軽く頷いた後、ついに前奏を弾き始めた。ギターの音は劇場の広い空間に拡散してほとんど耳に届かず、高村はすぐにスタンドからマイクを外して倉橋の背中に寄り添った。
 いざ歌い始めると、ライトの眩しさに慣れる間もなく曲はあっという間に終わってしまい、気が付くと大喝采の中で倉橋にマイクを奪われていた。

「みなさんにご紹介します。高村杏里です! 見てのとおりスタイル抜群のイケメンくんです。これから舞台でもガンガン活躍していくと思いますので、応援してあげてください。サンキュー!」

 びっくりするような音量の拍手が続く中、司会者二人がインタビューにやってきた。そういう段取りだということも高村はまったく知らなくて、騙されたと気付いた。もちろんトークは歌よりもさらに苦手である。

「お疲れ様でした、良かったよ〜、アンリ!」
「未央さん、私のギターは?」
「そこにはあんまり触れたくない」
「何それ!」

 磯田と倉橋の仲の良さに客席が笑う。間髪入れずに坂下がマイクを向けてきた。

「真名さんの家で泊りがけで練習したと聞きましたが?」

 なんと、坂下は高村がこっそり楽屋で愚痴ったことを満員の観客の前でばらしてしまったのだ。

「そう。でもアンリは私のベッドだといつも五秒で寝落ちするから稽古にならなかった。ねえ、なんで? そんな寝心地良い?」

 パニックになって絶句する高村に坂下が追い打ちをかける。

「嘘、先輩の家なのにそんなにすぐ寝れるの? アンリ意外と心臓強いんじゃない」
「い、いえ……寝てないです」
「寝ただろ」
「……すみません、疲れてて……」

 高村はひたすら謝ったが、なぜか目に映る人々の顔は和やかに笑っている。磯田が助け舟を出した。

「あれだよ、安心しちゃうんじゃないの? 真名の布団だから。心を許してるってことだよね。そうでしょ、アンリ」

 決してそういうわけではないが、否定することもできず、ひたすら恐縮して頭を下げるばかりになってしまった。
 その後どうやって引っ込んだのかはわからない。上手の袖で、お疲れ、と倉橋に抱きしめられて高村はやっと我に返った。

「ちょっと……」

 腕の中でもぞもぞと動いて振り払うと、今度は頭をぽんぽんと撫でられる。

「アンリ、すごく良かったよ。頑張ってくれてありがとう」 

 高村はいいえと首を振った。一か月間数え切れないほど練習を重ねてきたおかげで無意識状態でも間違えることなく歌えたのが幸いだっただけだ。

「真名さんがいっぱい稽古してくださったから……」
「今夜から一人で過ごすの寂しかったら引っ越してきてもいいよ」
「遠慮します」
「やっぱりな」

 これまでの人生で最大の大舞台が終わった、という実感はそのあと少しずつじわじわと込み上げて、高村は、初めて千秋楽後の打ち上げを心の底から楽しんだ。
 この日のファンミーティングがテレビで放送されると、その日の夜中にはもうインターネットに高村と倉橋の“I LOVE YOU”の動画がアップされ、あれよあれよという間に再生回数は5万回を突破した。
 『顔も歌声もイケメン』『何もかも許された恋じゃないとか……リアルBLカップル!!』『磯田、倉橋ときてこの子。梅団のポテンシャル半端ない』『真名くんが杏里ちゃんを見上げる目がたまらん〜!』『高村杏里の過去出演作情報求む』『倉橋の子分を選ぶ目が確信犯』『高村くん! 真名の家で寝ちゃダメだ! 危ないぞ!』『この企画考えたの倉橋らしいよ。後輩をプッシュする企画なんていい人すぎる!』
 SNSには連日このようなコメントが上がり、劇団本部ビルにも高村宛のファンレターが届き始めたのだった。

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