花ものがたり ―杏の章―
【7】


 井之口に歌を教えてもらった甲斐もなく、顔見世舞踊ショウのコーランの歌手のオーディションには結局落ちてしまい、高村は前回の公演に引き続き楽屋でお茶を引くことになった。そして、その公演の初日が開けた日から、舞台が終わるやいなや倉橋に手首をつかまれて恵比寿のマンションに引っ張って行かれる日が続いている。もちろん、ファンミーティングで披露する余興の練習のためだ。

「I LOVE YOU……?」
「そう。それしか弾けないから」

 倉橋は高村に一冊の楽譜を渡してきた。『初めてのギター弾き語り・尾崎豊”I LOVE YOU”に挑戦しよう!』という薄い本だ。

「カッコいい男と言えばギターでしょ? ってことでギター買って、何か一曲マスターしようと思ってこれだけ死にもの狂いで練習したの。今度のファンミで弾き語り披露するつもりだったけど、アンリがオーディション落ちたから、歌はアンリに歌ってもらう」

 ファンの求める究極のモテ男像を実現するため、やったことのないギターをわざわざ購入して練習したという倉橋の執念に高村は感心するというより呆れてしまった。創業者一族として劇団に入った責任を感じているのだろうと井之口は言っていたが、高村の目から見れば、倉橋はファンのために走り続けることが生きがいのように見える。
 どんなに疲れて帰ってきても、二人は毎日向かい合ってカウンターキッチンのスツールに座り、倉橋は危なっかしいギターを、高村は蚊の鳴くような声で歌を練習した。倉橋のギターはどんどん上手くなっていったが、高村の歌は、すっかり覚えてしまっても自信なさげな弱弱しい声のままだった。
 そろそろ公演が千秋楽を迎えるという日の夜、ついに倉橋は業を煮やして怒鳴った。

「アンリ。そんな歌じゃ二千五百人のお客様にぜんっぜん伝わらないぞ! ただ声だせばいいってもんじゃないんだよ。語る歌なんだから主人公になって演じないと。私を恋人だと思って歌ってみな」
「……思えません……」
「はあ?」

 自宅用の黒ぶちの眼鏡を押し上げてすごんでくる倉橋に、高村は初めて言い返した。

「思えませんよ! 受けたくないオーディション受けさせられて、無理やり毎日稽古につき合わされて、歌いたくもない歌練習させられて、挙句に怒られて、……真名さんはどうして私にあれしろこれしろって押し付けるんですか? もう私のことなんか放っておいてください。嫌なんです。あなたに付きまとわれるのが」

 口に出した瞬間胸がきりきりと痛んだ。自分が傷つけたはずなのに、その言葉が苦くてたまらない。きっと倉橋は激怒するだろうと、高村は下を向いて体を固くした。
 だが、倉橋はまったく動じずに冷静な声で答えた。

「……放っておこうって何度も思ったよ。もうこんなどうしようもないやる気のない奴のことなんて忘れようって何度も思ったし、周りの人たちにもアンリに口出しすぎだって言われてるよ」

 それならばなぜ……と口を開きかけた高村の肩をぐっとつかんで倉橋は続けた。

「でも放っておけないんだよ。悔しいんだよ。みんなにアンリのこと認めさせたいんだよ。アンリが劇団に入ったことには意味がある。アンリが舞台で輝くことでたくさんの人が喜んで、この人がいるから生きてて楽しいって思える……そのことをアンリ自身にわかってほしい。だから私は諦めない。必ずアンリをスポットライトの下に引っ張り出してみせる」

 高ぶる気持ちを抑え込んでいるのだろう倉橋の声は、最後には噛みしめるように低い囁きになった。自分よりも何倍も自分の価値を認めてくれる先輩に、ひどいことを言ってしまった。高村は申し訳なさに唇を震わせた。

「……私はそんな人間じゃありません……」

 倉橋は高村の体から手を放し、いつもの軽い表情に戻ってにやりと笑った。

「試してみなよ。今度のファンミで。ゼロ番でライト浴びて持ってる力の全部を出し切って演じて、それでダメなら私も諦める。もう二度とアンリに付きまとわないって誓うから……だからこの歌だけは本気で歌って」

 これが最後だ。きっとその舞台で高村は舞台人に相応しくないと証明され、倉橋も側を去って、平穏な日々が訪れる。なんだかんだ不満はあっても、今まで倉橋が目をかけてくれたから救われていた部分もたくさんあった。感謝の気持ちでこの最後の数日を頑張ろう、と高村は思った。

「わかりました。この歌だけは一生懸命練習します」
「じゃあ私を恋人だと思って……」
「それはちょっと」
「なんでだよ!」

 倉橋が怒りながら立ち上がるのを見て、高村の頬にも初めて微笑みが上った。

「くそっ、これ以上そのヘロヘロな声で歌ってたって埒が明かない。アンリ、寝るぞ」
「え? 稽古終わったなら帰りますけど……」
「ダメ。今夜は帰さない」

 ぴしりと指さされたオレンジ色のベッドを見て、高村はぎょっとした。まさか倉橋は、梅団で広まっている根も葉もない噂のとおりに高村を“恋人”にしてしまう気なのだろうか。

「い、いやです……」
「何が嫌だって?」

 大きい図体をしているくせに力のない高村は簡単に手首を引っ張られてベッドに転がされた。

「何するんですか!」
「出るじゃん、声。ねえ、アンリ、誰かとベッドで抱き合ったことある?」
「……ノーコメントです……!」

 かっとなって言い返した後、高村は倉橋の意図をやっと察した。さんざん練習してきた曲の歌詞の一節――ベッドの上できつく体を抱きしめ合う、という部分を倉橋は芝居で稽古しようと言っているのだ。

「もしかして、歌詞の通りにやってみるんですか?」
「その通り。別に手ごめにしようってわけじゃないからそんなに怯えないでほしいんだけど」

 わかってますよとぼやきながら、高村は安心して思わず溜息をついた。腕力だけではない不思議な力で、倉橋はいつだって高村を思い通りにすることができる。高村にできるのは、その力を今使わないでくれと願うことだけだ。
 余裕を取り戻した高村は、眼鏡を外して手探りでベッドに入ってくる倉橋を導いて、自分の腕の中に包み込んだ。倉橋の着ている上等なスウェットの触り心地が素晴らしいことに感心しながら背中を撫でる。

「真名さんこの服着てると抱き心地いいですね……うっ」
「ほのぼのしてる場合じゃない! もっと情熱的に抱きしめてみろ」

 ぐいっと体を強く引き寄せられ、内臓が締め付けられて高村は思わず変な声を上げてしまった。

「どう? 抱きしめ合った感想は」
「苦しいです……でもあったかくて、ちょっと笑えますね」
「だからほのぼのしてんじゃないっつうの」

 倉橋はぺしっと高村の頭を叩くと、これ見よがしな溜息をついて腕の力を緩めた。

「この歌で歌われてるのは、味方もなくてお互いだけしかいなくて切羽詰まってる愛なんだよ」
「でも、抱き合うならこのくらいのほうが、気持ち良いと思います……」

 伝えた言葉の返事を聞くより先に、高村は人肌のぬくもりと呼吸のリズムにすっかり眠りの中へ誘い込まれてしまった。
→NEXT 【8】
トップへ戻る
Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved.
inserted by FC2 system