花ものがたり ―杏の章―

【6】


「それはもちろん教えてあげてもいいけどさ、本人の気持ちはどうなの? さっきから真名ばっかり喋ってて、アンリちゃんは一言も喋ってないけど」

 目の前にいる先輩男役のその言葉に冷や汗をかいた瞬間、高村は隣に立つ倉橋からいきなり頭を押さえつけられて深々とお辞儀をさせられた。

「すみません!こいつは夕子さんに声掛けるなんて思いも及ばないような奴なんですよ、引っ込み思案過ぎて。それでチャンス逃してるのがもったいないから、いてもたってもいられなくて……」

 倉橋も高村と同じくらい深々と頭を下げている。その相手は、梅団で、いや花水木歌劇団で随一の歌い手と言われている男役の井之口夕子だ。幼い頃から民謡で鍛えた声は、いくら汲んでも尽きない泉のように豊かに澄んで湧き出してくる。その響きのある低音の声で、井之口は倉橋をたしなめた。

「うん、真名の気持ちはわかったから顔上げて。ちょっとアンリちゃんと二人で話してもいい? お前がいるとうるさいから」

 倉橋は、しっかりやれよと言いたげな強い視線で高村をぐっと見込んだ後、稽古場を出ていった。その一秒後に高村と井之口は同時に溜息をつき、顔を見合わせた。

「すみません、お忙しいところ……」
「いや、大丈夫だよ。どうしたの。何かあった?」

 グランドピアノの閉じられた蓋に片方の肘をついて、井之口は優しく尋ねてくれた。この先輩は倉橋のひとつ上の期で、小柄で少女のような可愛らしい顔をしているのに、日常から服装も立ち居振る舞いも男になりきっている人だ。歌のみならずダンスも芝居も達者で演出家からの信頼が厚く、いつもキーポイントとなるような役柄を射止めている。

「実は……この間のオーディション、受けた役全部落ちてしまったんです」

 井之口はピアノに寄りかかっていた体を起こし、高村のほうがびっくりするほどの声を上げて驚いた。

「本当に!? 何の役を受けたの?」
「レストランの客と、ウェイターと、駅員と、運河の場面で通行するカップルと、キャバレーのコーラスです」

 高村は、もらった台本を読んで検討し、経験の浅い自分でもやれそうな役をすべて受けた。それなのにまったくどの役にも選ばれなかったのだ。その中には高村以外の全員が合格した役もあった。つまり、高村だけがあえて外されたと考えられなくもない。
 入団して初めて全力を出して受けたオーディションがこの結果になり、高村はまったく笑顔をつくることができないほど落ち込んでいた。

「ああ……」

 井之口は額を手で押さえた。もう入団三年目なのにこんな誰でも良いような役にすら選ばれなかった高村のふがいなさに呆れているに違いない。

「それで自信無くしてしまって……。でも真名さんが、舞踊ショウの追加オーディションの“コーランの歌手”を受けろってしつこいんです。そんなの受かる訳ないのに」

 イスラム圏の民族舞踊をテーマにした舞踊ショウの幕開きにアカペラのソロを歌う役のオーディションが追加で行われると発表され、倉橋はその役を絶対に取れと高村に命じたのだ。しかし、特に歌が得意というわけでもない高村は、そんな身の程知らずな大役のオーディションに挑戦したくはなかったし、まかり間違って万が一選ばれたとしてもやりたくなかった。しかし倉橋は逃げることを許さず、梅団でいちばんの歌手である井之口に高村を指導してくれるように頼んだのである。
 その井之口は腕組みしながら言った。

「それはわからないよ、受けてみないと。選ぶのは演出家だから俺たちに自分の可能性を勝手に決める権利はないし。……あのさ、アンリちゃん、どうして主人公の弟の最初に病気で死んじゃう子の役、受けなかったの? あと、キャバレーのドアマンで踊り子とセンターでデュエット踊る役とかさ。ちゃんと台本読んでる?」
「はい、台本は読みましたが……そんな役は私には無理だと思って……」
「なるほどね。真名の気持ちわかってきたぞ」

 井之口は苦笑した。

「アンリちゃん、どうしてオーディションに落ちたのか、おせっかいかもしれないけど教えてあげる」
「下手だからじゃないんですか……?」
「目立ちすぎるんだよ。アンリちゃんが出るとストーリーの流れに関係なくお客さんがそっちを見てしまう。だからオーディション受けるんだったら舞台の真ん中にいる役とか注目を集める役を受けたほうがいいよ。磯田さんが若い頃にやってたみたいな役。その他大勢の役を受けるとまた落とされると思う、たぶん」
「そんな……。助けてください。真名さんが、役がつかなかったらファンミで歌わせるって……」

 高村にとってはこれ以上ない深刻な悩みだったが、井之口はそれを聞いたとたん面白くて仕方がないという様子で笑い出した。

「それもいいんじゃない? ソロのオーディション受かったら毎日舞台で歌わなきゃいけないんだよ。ファンミなら一度でいいんだから気楽でしょ」
「あ、そうか。そうですね……」

 とにかくもうチャンスはすべて指先を通り抜けてしまった。オーディションに受かっても地獄、落ちても地獄である。高村は全身の力が抜けきってしまうような長く大きな溜息をついた。泣きそうになっている丸めた背中を井之口がとんとんと叩く。

「大丈夫。花水木を目指して合格して研修も受けて来たんだから、舞台に出るのは当たり前のことだよ。そんなに怖がらないで、少し自分を客観的に見てみたら? 受ける役なんかはスタッフや先輩の意見を聞いてみるといいよ。……あ、ただしキャリアの近い先輩はやめたほうがいい。ライバルを蹴落とそうとしてくるから」

 付け加えた部分は声を潜め、井之口は悪戯っぽく笑った。

「それにしても、真名はアンリちゃんのことすごく気にかけてるんだね。大変だ、気に入られちゃって」

 高村は心の奥をピンポイントで衝かれ、たまらなくなってぐすっと鼻をすすった。近頃は倉橋の顔を見るたびに胃が痛むようになってしまっていた。どうして放っておいてくれないのかと恨み言ばかりが胸に溜まっていく。
 四谷のマンションを引き払って寮生活に戻ると決めたときも予想通り倉橋に文句を言われた。

「そういえばアンリ、部屋は決まった? このマンション来月また1室空くみたいだし、まだ決まってなかったら……」
「もう引っ越しました」
「えっ、いつ!? どこに?」
「先週。寮に」
「なんで? 劇団員と一緒に帰るの嫌だって言ってたじゃん!」
「はい」
「わざとだろ!? 私と顔合わせたくないから……」
「お金がないからですよ」

 そう言って高村は話を終わらせようとしたが、倉橋にしつこくプロレス技をかけられて理不尽な恨み言を言われたのだった。それがほんの二、三日前の出来事だ。

「……どうして真名さんは、私にかまうんでしょうか……」

 高村にとっては人生最大の謎、と言えなくもない問いだった。きっと高村がぼうっとしていて劇団員としての自覚に欠けているから、梅団のプロデューサー気取りの倉橋は矯正しようと頑張っているのだろうが、そんなことをしても労力に見合う成果が期待できるとは思えない。

「二人はさ……、いや、ごめん。アンリちゃん、真名に負けちゃダメだよ。先輩だからって遠慮しないで、聞きたい事とか言いたい事とかちゃんとぶつけていいんだからね? 何かあったらいつでも俺のとこ来て」
「はい……」

 実際は倉橋を目の前にすれば自分はすべてを飲み込んでしまうのだろうが、高村は井之口の親切に感謝した。
 そうだ。この優しくて頼りになる先輩になら、先日から胸にひっかかり続けている倉橋のもう一つの顔について、話を聞いてもらえるかもしれない。

「あの、井之口さん。他の人には誰にも言わないで欲しいんですけど……、真名会のことご存じですか?」
「ああ、ファンをとっかえひっかえってやつ? きっとただの噂だよ。妬まれやすい子だから」
「いいえ、私、連れて行かれたんです。ホテルのスイートルームで、パトロンみたいなご夫婦が舞台の感想とかいろいろと真名さんに意見を言って……真名さんは昔からそうやってファンの意見を集めて制作に伝える活動をしてるらしくて、それはいいんですけど、ホテル取ったり食事したりするのってバレたらまずいと思うんです。私、心配で……井之口さんからやめるように言っていただけませんか?」

 そこまで喋ってしまってから高村は胃が冷たく沈むような後悔に襲われた。これは告げ口ではないのか。この自分の一言のせいで、もし倉橋のしていることが本部に発覚して処分を受けることになったら……。
 しかし井之口は意外なことにまったく態度を変えず、むしろ面白そうな顔をして言った。

「へえ、そんなことをしてるんだ。だったらたぶん、劇団側も知ってて見て見ぬふりをしてるんじゃない? 真名は治外法権だから」
「どういう意味ですか?」
「養成所で習ったはずだよ。花水木歌劇団の創立者は誰?」
「時の文部大臣の倉橋統巨卿です……あっ」

 なぜ今の今まで気が付かなかったのかと高村は茫然とした。そして倉橋という名前は梅団にもう一人いる。現在のトップスター、倉橋志乃だ。
 井之口はピアノに肘をついたまま高村に向かって静かに目配せのようなウインクをしてみせた。

「今のトップの志乃さんも、真名のいとこで創立者の一族だよ。この劇団は法の上に成り立ってるけど、それでもそういう不平等な特権は一部に残ってる。真名はそれを誰よりも知ってるから、養成所に入ってきたときから鬼のように努力してた。生活態度も完璧だったから俺は二年生の主任だったけど真名のことは一度も怒ったことないよ。今もすごく自分に厳しいし、後輩のみんなの面倒も見てコミュニケーションもまめにとって、やりすぎなくらい頑張ってる」
「コネだって思われないように、ですか……?」
「むしろ、コネだからこそ、人並み以上に劇団に貢献しなきゃいけない、劇団が社会に果たすべき役割をきちんと果たさせるんだって、ひとりで背負い込んじゃってるんじゃないかな。アンリちゃんの話だとプロデューサーの仕事みたいなこともしてるんでしょ? その上、アンリちゃんの世話まで……」
「すみません」

 自分が倉橋のお荷物にしかなっていないことを痛感して、高村は思わず謝った。井之口は笑いながら、うなだれた高村の頭を撫でてくれた。

「冗談冗談。アンリちゃんも今は自分のことで精いっぱいだろうけど、これから先、真名の支えになってくれたら俺は嬉しいな。真名は将来必ず劇団を背負うことになると思うから」

 同じ梅団の団員でありながら、倉橋の生きている世界はあまりにシビアだ。高村はようやく、自分の劇団員としての生き方がなぜそれほどに倉橋を苛立たせるのかを理解したのだった。

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