花ものがたり ―杏の章―
【5】



 公演に出演している劇団員は毎朝霞が関の本部ビルに出勤し、そこで朝礼とウォーミングアップを終えた後、専用バスで劇場へと運ばれる。
 今、梅団は、顔見世舞踊ショウ『春はあけぼの』と芝居『紅い銃口〜香港警察物語〜』の二本立てを公演している。一幕のショウが終わり、30分の休憩時間も終わって次の芝居が始まると、高村は楽屋の廊下にずらりと並んだ洗面台の蛇口を磨きはじめた。業者の掃除は毎日入っているが、そこまで徹底してはいない。くもったステンレスがぴかぴかになるのは気持ちが良いものだ。
 舞台から聞こえてくる音楽に合わせて鼻歌を歌いながらせっせと磨いていると、後ろからいきなりTシャツの襟首をつかまれて息が止まった。

「おい、何やってんだよ」

 ドーランの香りとともに浴びせられた甘い男役の声は、倉橋真名だった。出番と出番の合間に楽屋へ戻ってきたところを見つかったのだ。

「掃除、です……」

 文句を言われる筋合いはないだろうと高村は思ったが、倉橋の顔は舞台化粧のまま鬼のように恐ろしい形相になった。血糊の飛び散ったスーツという舞台衣装を着ているせいで迫力が二倍増しになっている。

「アンリ。劇団員がどうして開演中に掃除してんの? 化粧もしないで」

 高村は震えながらおずおずと答えた。後ろめたさに目を見ることができない。

「今月は……顔見世しか出番がないので……」
「はあ!? 時間ないから後で話す。とりあえず今夜インペリアルホテルに付き合うこと。逃げるなよ!」

 倉橋は走ってトイレに消えていった。上演中の一秒を争うときにわざわざ高村を捕まえて怒るというのはよっぽどのことだ。
 倉橋が何を言いたいのか、高村には思い当たる節があった。秘密にしていたことがバレたに違いない。
 花水木歌劇団では、トップ・娘役トップ・準トップ以外の配役は通行人からコーラスまですべてオーディションで決定する。台本が配られてすぐに行われる各役のオーディションで役を勝ち取らなければ舞台に出ることはできない。
 高村は、今回の公演のオーディションを病気を理由に欠席していた。だから役がなく、全員出演の顔見世舞踊ショウの総踊りに出た後は化粧を落として私服に着替え、せめて何か仕事をしようと楽屋の掃除をしていたのだ。
 実は、オーディションを休んだ口実の”病気”というのは嘘だった。オーディションが大の苦手でそもそも出番が欲しいという気持ちさえない高村に、一年上の先輩たちが「この役は受けないでね、私が受けるから」というようなプレッシャーをかけてきたのである。先輩に言われたことを無視して波風を立ててまでオーディションを受けるなんて、高村には考えられなかった。
 きっと倉橋はそのことを知ってしまったのだろう……そう思うと高村は地下に潜り込んでしまいたいほど憂鬱になった。オーディションの公正さは花水木歌劇団の根幹に関わることである。大ごとになりませんようにと願うしかない。

 その夜、高村は倉橋に連れられて劇場からほど近い高級ホテルへ向かった。倉橋はフロントを素通りしてまっすぐに客室行きのエレベーターに乗り、最上階で降りると、そのままずんずんと廊下を進んで、とあるスイートルームのドアを迷わずにノックした。

「真名さん、これって……」
「真名会」

 高村は息をのんだ。都市伝説だと思っていた噂、倉橋が会員制の私的なファンミーティング――限定された数人のファンと定期的にホテルで密会して接待を受ける『真名会』を開催しているというのは本当だったのだ。「倉橋真名はファンを“とっかえひっかえ”している」。これが事実ならば、女優とはいえ公務員のひとりにすぎない花水木歌劇団の団員にとっては大スキャンダルとなる。今後の出世に差し障るどころかクビにもなりかねない不祥事だ。その現場に連れてこられたのだから、高村も共犯者ということになるのではないか。

「いらっしゃい倉橋さん。今日も公演お疲れ様」

 落ち着きを失った高村の目の前に現れたのは、六十代くらいに見える銀髪の紳士だった。そしてその隣にはきちんと髪の毛をセットした品の良い夫人がにこにこして立っている。倉橋は二人ににこやかに会釈をして高村の腕をぐいと引っ張った。

「お忙しいところありがとうございます。今日の議題はこいつのことで……」
「ああ、知ってるよ。高村杏里さんだよね? 百期生の」
「お会いできて嬉しいわ、高村さん。立ち話もなんだから、どうぞお入りになって」

 驚いたことに二人は無名のその他大勢である高村の存在を知っているようだった。それにこの雰囲気は、高村が予想していた『真名会』の乱れたパーティーの様子とはだいぶ違っている。
 通された部屋はホテルの一室とは思えないほど広かった。ソファセットとテレビのある部屋にダイニングセットのある部屋がつながっており、その奥に開け放された扉が二つあって、ベッドルームが二つあるのが見える。このほかに洗面所やバスルームもあるに違いなく、四人以上は宿泊できる規模だ。高村は完全に気おくれしてしまい、倉橋にぐいぐいと引っ張られながらダイニングの椅子に座った。隣に座った倉橋はすぐにバッグからノートとペンを出してテーブルの上に広げる。

「まあまあ、仕事の前にちょっと乾杯ぐらいしましょうよ」
「いえ、お酒は遠慮します。こいつも」

 倉橋はきっぱりと言った。老紳士は仕事、と言ったが、もしかしてこれは何かの打ち合わせなのだろうか。だとしたらそんなに心配することでもないのかもしれない、と高村は少しだけ安心した。

「それじゃあ、ジュースを頼むわね。オレンジジュースでいいかしら」
「いただきます」

 ほどなく部屋のドアがノックされ、しぼりたての生のオレンジジュースと温かいローストビーフサンドが運ばれてきた。

「高村さんはどう見ても痩せすぎだから、しっかり肉を食べなさい。痩せると風邪をひきやすくなるからね。私は医者だから、医者の命令だと思って遠慮はしないこと」

 きっとかなりの値段がするのであろうローストビーフサンドを無理やりにすすめられ、高村は、これを食べたら賄賂を受け取ったことになるのだろうかと不安になりながらも一口かじった。とてもおいしかったが、そのおいしさを喜びに感じる余裕もなく、高村はテーブルの会話の内容に震え上がった。
 大金持ちの医師の夫妻は、倉橋に質問されるままに、梅団の現在上演中の舞台全体の感想と客席の雰囲気の分析から始まり、芝居のストーリーの組み立て方や演出、各場面の目立った出演者について、衣装の色合い、歌のキーの高さまで事細かに意見を述べ始めたのだ。それも、梅団の団員の今までの舞台歴や過去の公演のチケットの売れ行きまで言及して。
 そして高村がいちばん驚いたのは、彼らが高村について話し始めたことだった。

「高村さんのことは養成所の一年生のお披露目の合唱のときから気にしていたんだけど、梅団に配属になって、出てくるかなと思ったらそれほどでもなくてがっかりしたよ。でも顔見世なんかで後ろの列で踊っているときでもやっぱり光るものはあるしつい探したくなってしまうんだよね。日本舞踊が苦手みたいだけどうまくなってきてるし、努力してるのがわかる。それから、二作前の芝居で一言セリフがあったでしょう、とても涼しげないい声だったからああ見た目を裏切らないなと思った記憶があるね」
「私も高村さんには入団前から期待していたわ。昨日ね、休憩中にトイレに並んでいたら後ろのお嬢さんがこんなことを言っていたの。梅団の舞台を見て、高村杏里を見つけられたらその日はラッキー、一日中良い気分だって。お連れの方も、わかるわかる、レアキャラよね、っておっしゃっていたのよ」

 いたたまれなくて身を縮める高村の肩を、倉橋はぐいっと掴んだ。

「アンリ、お前、レアキャラだぞレアキャラ! 公演中に高村杏里を見つけられたらその日はラッキーって言われてるレベルだぞ! もう三年目なんだからいい加減レアキャラは卒業しろ!」

 高村はひたすらすみませんと頭を下げた。ファンの前で叱られるなんて、これ以上恥ずかしいシチュエーションがあるだろうか。

「もう耳タコだろうけど、私たちは二年間も公費で研修受けて、やっと舞台で稼げるようになったんだから、一人でも多くのお客さんに見てもらう義務がある。日本中の人に育ててもらった分、日本中の人に夢を見させて返していかなきゃならないの。アンリが舞台に出ないだけで世の中がどれくらい損してると思う?」

 正直、自分ひとりがいないくらいで客足が変化するとは思えなかったが、高村はひたすらすみませんでしたと繰り返した。

「アンリはね、役がなくてもたくさんのお客さんがオペラグラスで血眼で探すくらいの存在なんだよ。このSNS時代に、花水木のファンがお前を見逃すわけがないだろ。お前が本気出せば千人単位のファンクラブはすぐできるよ。団の中の小さいやつらを見るんじゃなくて、もっと広い世界を見て生きろ!」
「真名さん……」
「何?」
「お言葉ですが、そんなファンとかいないと思いますけど……そもそも舞台でセリフしゃべったこともあまりないし、お手紙とかもほとんど来ないし」
「バカ野郎!」

 倉橋の拳がテーブルを叩き、高村は精神的にさらに追い詰められた。下から睨み上げる倉橋の顔が本気だ。

「まあまあ倉橋さん、そのくらいにしてあげなさいよ。繊細な子にあんまり強く言ったら逆効果だよ」

 老紳士は倉橋をなだめて高村に向きなおった。

「倉橋さんのマーケティング力をなめてはいけないよ。彼女はね、君くらいの年のときから、梅団のファンを集めて意見を聞く会を定期的に開いているんだ。そしてその会で集めた情報をスタッフと飲み会で共有して、実際の舞台に反映させてきたんだよ。その活動のおかげで、梅団はここのところ客席稼働率90%以上を維持している。私たちのような一般の客の意見を本当に取りあげてくれるのは花水木歌劇団の中で倉橋さんだけだよ。だから、私たちは心から倉橋さんと梅団を応援しているんだ。……おっと、電話だ。ちょっと失礼」

 その電話は、老紳士を自身の経営する病院へと呼び戻す電話だったらしい。夫妻は慌てて帰り支度をしてすまなさそうに倉橋に謝った。

「悪いねえ、急患で致し方なく」
「もっとゆっくりお話ししたかったのだけれど、残念ですわ。私たちは泊まるつもりだったからこのまま泊まっていっても大丈夫よ」
「お気になさらないでください。お忙しい所、本当に貴重なお話をありがとうございました」

 深々と礼をする倉橋の隣で、高村も頭を下げた。

「ありがとうございました。ご期待にそえるように頑張ります」

 夫婦が部屋を出て行ったあと、倉橋は黒ぶち眼鏡を押し上げながら大きなため息を吐いた。

「ほんとにわかってる? わかってんならオーディションには全力で挑めよ。もし次の公演でセリフのある役がつかなかったら、千秋楽のファンミーティングで一曲ソロで歌わせるからな」
「ええええええ……マジですか?」
「大マジだよ。死ぬ気でやれ!」

 言われなくても高村はこれ以上ないほどの崖っぷちに追い詰められていた。
 千秋楽の終演後の舞台で行われる恒例のファンミーティングは、劇団員が自分たちで企画をして、かくし芸や公演のパロディ、トークショー、ゲームなどを行う催しだ。もちろん満員の観客を前にして行われる。それだけではなく、その模様は収録され、チケットが入手できなかった人々のために国営テレビで全国放送されるのである。そんなファンミーティングでソロを歌うなんて、考えただけでも失神してしまいそうだ。

「ところで、今夜泊まってく?」

 倉橋は二つ並んだ寝室のドアを指差した。高村は目を丸くして首を振った。他人の金でこんな高級ホテルのスイートに平然と泊まれる倉橋の気が知れない。

「とんでもない、帰ります」
「じゃ、タクシー券あげる」
「いりません! あの人たちにもらったんでしょう? マーケティングの為って言っても、こういうの良くないと思います」
「わかったよ、じゃ一緒に帰ろう」

 タクシーで仮住まいの恵比寿のマンションへ帰る間、高村は深く考え込んで一言もしゃべらなかった。倉橋はもう何年も前からこういう集まりを開いていたという。きっと最初はカフェやファミレスで集まっていたのだろうが、人目を気づかったファンが気を利かせてホテルの一室を予約して……という展開は十分予想できる。倉橋は奢られることになんの罪の意識も持っていないようだったが、それでも、ホテルでファンと「密会」しているという噂の真相がわかったことは高村を少し安心させた。
 それよりも高村が緊急に向き合わなければならないのは、なんとしてでも次の公演のオーディションでセリフのある役を勝ち取らなければならないという課題である。高村は入団して三年目にして初めて本気を出すことを誓った。
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