花ものがたり ―杏の章―

【4】


 恵比寿のマンションへ向かうタクシーの中で高村は同期の坂下に電話をかけた。坂下は終演後に夜桜見物に向かう団員たちのグループに混じっていたが、もう日付の変わったこの時間なら当然帰宅しているはずだ。
 だが、電話に出た坂下の声の背景には笑い声や食器のぶつかる音が聞こえていた。

『もしもし? アンリ? ごめん、周りがうるさくて! もっと大きい声で話してくれる?』
「……梅華、今、外なんだよね?」
『うん、どうしたの』
「ちょっと、泊めてほしくて……」
『え、珍しいじゃない。何かあった?』
「うん、事情があって家に帰れないの。梅華は何時ごろ帰る?」
『そろそろお開きだから…一時すぎかなあ。こんな時間だから待ってるところないよね? 大丈夫?』
「……うん、大丈夫……、気にしないで」
『ごめんね、アンリが来ると思わなかったからつい付き合っちゃった』
「いいよ、こっちこそ邪魔してごめん。おやすみ」

 電話を切ると、隣に座った倉橋にニッコリと微笑まれた。

「ご愁傷さま。ようこそ我が家へ」


 倉橋はいつでも人を家に入れることができるくらいに綺麗好きのようだ。玄関に靴が散らばっていることもないし、台所のシンクに洗い物がたまっていることもなく、床に髪の毛やほこりが落ちていることもない。
 部屋にはかすかにルームフレグランスの薔薇の香りが漂っていた。

「おじゃまします……」

 二年も前に酔っぱらって初めて連れて来られたときの記憶などほとんど頭に残っていない。倉橋の部屋のポップな家具と壁に張られた映画のポスターの数々に高村は素直に感嘆した。

「おしゃれな部屋ですね……」
「もっと早く来ればよかった?」

 倉橋はまんざらでもない様子で高村のスーツケースをひょいと持ち上げた。床を汚さない気づかいが几帳面な倉橋らしい。

「狭いけどゆっくりして。自分の家だと思っていいから」

 後輩が緊張しているだろうとの心遣いの言葉は、しかし、高村の耳を素通りしていた。部屋の左奥に置かれたセミダブルのベッドのふんわりとしたオレンジ色の羽根布団に目が釘付けになっていたのだ。
 高村はふらふらとベッドに近づき、倒れ込んだ。一日の公演とその後の怒涛の出来事に溜まりきった疲れがどっと押し寄せる。

「ちょっとアンリ!何やってんだよ。そりゃ自分の家だと思えって言ったけど私の寝るところぐらい空けろ!明日は五時起きで『月刊はなみずき』のロケなんだから。……って聞いてないなこの野郎、犯すぞこら」

 いつもの御小言はちょうどよい響きの子守歌にしかならず、高村はそのまま朝までぐっすりと眠りこんでしまった。
 朝七時にスマートフォンの目覚まし音で目が覚めると、家には誰もいなかった。
 倉橋は先に出かけてしまったようで、ダイニングテーブルの上に置手紙と合鍵が置かれていた。手紙には彼女の見た目と気性に似合わぬ丸文字でこう書かれていた。

『アンリへ
おはよう。よく寝てたから起こさなかった。意外に神経図太いみたいで安心したよ。荷物は置いたままでいいから、出かけるときは鍵をかけていくこと!』

 手紙からは怒っている様子が感じられなかったので、高村は少しほっとして手紙と鍵をポケットにしまった。とりあえずすべての荷物をまとめてこの部屋を出て、鍵をかけ、下のフロアの坂下梅華の部屋に移らなくてはならない。
 スーツケースを引っ張って坂下の家の玄関のドアを叩くと、すぐに迎え入れられた。

「昨日はごめんね、大丈夫だった? もしかして、真名さんちに泊まったの?」
「うん」
「じゃあ良かった。っていうか、どうして最初から真名さんのところに行かなかったの? ここの上の階なのに」

 坂下は化粧をしかけたままのヘアバンド姿で20センチほど身長差のある高村を見上げる。

「だって先輩だし。あんまり迷惑かけられないし。悪いけど、この荷物置かせてくれる?それと今晩からしばらく泊めてほしいの」

 高村がそう言うと坂下は首をかしげて納得のいかない顔をした。

「……それはいいけど。あ、あと五分で支度できるから、このマンションの1階のカフェでコーヒー飲んでから行こうよ。チェーンだけど結構雰囲気いいんだよ」
「へえ、いいね」

 昨夜は真っ暗で気が付かなかったが、マンションのエントランスの横に、道路に面してシアトル系コーヒーの店があった。ダークブラウンを基調にしたアメリカンな内装で、少し倉橋の部屋と雰囲気が似ている。

「そっか、佐野さんと真名さんが助けに来てくれてほんっとに良かったね! で、どうするの? 引っ越すの?」

 朝からドーナツを食べながら情報収集もおしゃべりもしっかりとやってのける坂下のパワフルさと器用さに高村は感心しながらカフェラテをすすった。朝はだるくて固形物を食べられないのでいつも飲み物だけだ。

「うん、しょうがないから引っ越す……。でも真名さんがこのマンションに越して来いってうるさくて困ってる」
「いいじゃない、交通の便も良いしカフェもあるし何かのときには私もすぐ駆け付けられるし。あ、どうせなら真名さんと一緒に住んじゃえば?」
「えええええ」

 盛大にブーイングすると、坂下は真剣な顔でまじまじと高村の顔を覗き込んできた。

「なんで嫌なの? 真名さんと付き合ってるんでしょ?」

 高村はぽかんとしてしまった。仲の良い同期で自分のことをいちばん知っているはずの坂下までが、はるか昔のお持ち帰り事件の後遺症をいまだに引きずっているとは思わなかったのだ。

「付き合ってないよ」
「嘘でしょ!? 別れたの?」

 坂下は食べかけのドーナツを皿に置いた。本気で追及に集中するようだ。

「いや、一度も付き合ったこととかないし……最初から今まで」

 高村は坂下の目を見ながらゆっくり言い聞かせるように答えた。この思い込みは解いておかないとまずい。
 坂下はショックを受けた様子で口を押さえ、ぱっちりした目をさらに見開いている。

「それほんとにほんとなの? あのね、梅団では二人が付き合ってるのは周知の事実ってことになってるよ。アンリがこんなに天使みたいに超キレイなのに誰も『ファンです』とか言ってこないのはどうしてだと思う? 真名さんが私のアンリに手を出すな!って雰囲気ギラギラさせてるからじゃん。てことは、えっ、まさか……真名さんの片思い!?」
「やめてよ、違うから」

 突拍子もない坂下の言葉と、周囲の視線が気になるのとで、高村は変な汗をかいた。静かにと頼むように人差し指を唇に立てる。たとえ倉橋が周囲をけん制していなくても、実力がなく性格も暗い高村にファンなどできるわけがないのだ。
 ふと視線の端に入った壁時計の針が思った以上に回っているのに気づき、高村はチャンスとばかりに逃げた。

「ほら、もういい時間だよ。早く行かなきゃ」
「あ、ほんとだ。続きは今日家に帰ってからね。真名さんとのこと、詳しく聞かせてもらうから」

 坂下は気持ちを切り替えるのも店を出るのも素早い。後ろで一本に編み込んだゆるふわの髪とむっちりしたショートパンツの後ろ姿を、高村は置いていかれないよう必死に追いかけた。

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