花ものがたり ―杏の章―
【3】


「アンリ、大丈夫!? 何もなかった?」
「ごめん、ほんとは職務規定違反だけど今夜は緊急時だからお邪魔するよ」

 倉橋と演出助手の佐野は居酒屋からタクシーを飛ばして、ストーカーに怯えている高村の部屋に駆け付けてくれた。
 二人の顔を見ると高村は安堵してベッドに座り込んだ。一人のときはすぐ逃げられるようにと立ったまま室内をうろうろ歩きまわっていたのだ。もう普段の就寝時刻をかなり過ぎており、疲労が背中にのしかかっている。

「真名さんからの電話切ってすぐ……、いなくなったみたいです」
「そう。良かった。通報は?」
「してない」
「どうして!」
「何もされたわけじゃないし……付いてきてピンポン押しただけだから……そういうのって犯罪なの?」
「決まってるだろうが」

 倉橋はウェーブヘアを掻きまわして唸った。

「まったくもう、全然成長してないなあお前は! 自覚なさすぎの警戒心なさすぎ」
「まあまあ、倉橋。ほらさっきの話してあげたら」

 佐野にたしなめられ、倉橋は説教モードをいったん止めて眼鏡を直しながらふっと息をついた。

「そうだった。アンリ、私の住んでるマンション、下の階に空きが出たから引っ越しておいで。ストーカーに家知られたならできるだけすぐ移ったほうがいい。こっちの部屋の解約は後からでも出来るから、とりあえず明日総務部の福利厚生課に話しに行きな」
「えっ……」

 倉橋が住んでいるのは劇団が一部の部屋を借上げて劇団員に割安な家賃で貸している恵比寿のマンションだった。そこには倉橋だけでなく、高村の同期の坂下梅華も住んでいる。
 確かにそこに住めばストーカーに狙われてもすぐ知り合いに助けを求めることができて安心感はあるが、仕事を離れた後の時間までも同じマンションに帰るというのは高村には抵抗があった。もともと一人になりたくて寮を出たのだ。
 即答しなかった高村に、佐野が追い打ちをかけた。

「恵比寿の社宅は希望者が多いみたいだけど、俺が事情を話して高村を入れるように頼んでおくよ。それと、引っ越し業者のトラックをストーカーに見られると良くないから、裏方の力自慢を何人か連れてくる。この程度の荷物なら大丈夫だろ」

 ぐるっと見回した狭いマンションの中にはほとんど家具がなく洋服ばかりだ。
 頭がついて行かなくて返事ができない間に話がどんどん進んでいってしまう。高村は慌てて止めた。

「あの、すみません……、私、やっぱりここに居たいです。やっと住み慣れたところだし、皆さんにご迷惑かけてしまうし……」
「は? 何抜かしてんの」

 酒の匂いをまき散らしながら倉橋は高村の襟元をつかまんばかりに襲い掛かってきた。

「ストーカーに後付けられてマンションの部屋番号まで知られてんのに居続けるってどういう神経してるんだよ。そりゃ悪いのは向こうだけど、アンリも自分の身は自分で守んなきゃ」
「そうだよ、倉橋だって危ないから心配してるんだよ。高村は無防備なとこあるからなあ」

 二人に言われて、何も言い返せずに黙ってしまった。いつもこうだ。倉橋の熱に押されると自分の気持ちはふわっと溶けてどうにでもなれと思ってしまう。しかし今回は譲ってはいけないような気がなぜかした。

「わかりました……じゃあ引っ越しますけど……真名さんと同じマンションは嫌だ」

 小さな声で言った。二人は面食らったようだった。いつもほとんど反論などしない高村が、珍しく自分の意見を言ったからだろう。

「どうして?」
「仕事終わった後も劇団員と一緒に帰るなんて……それが嫌だから寮出たのに、意味ないです。真名さんのマンションに引っ越すぐらいなら寮に戻ります。そのほうがお金かからないし」

 佐野は面白そうに笑った。

「嫌われたなあ、倉橋」
「劇団員と、って言ったんじゃないか。私を名指ししたわけじゃないでしょ」

 倉橋は佐野に下唇を突き出した。こんなときの倉橋は本当に魅力的で、古き良き昭和の少女漫画に出てくるモノクロの美少年のようだ。高村と一緒にいるときの倉橋はだいたい怒っているか説教しているか拗ねているかで、跡が付くのではと心配になるほどいつも眉間にしわが寄っている。倉橋がそんな表情をしてまでなぜ自分のそばにいて苛立っているのか、高村には謎でしかない。

「わかった、じゃあ部屋は自分で探しなよ。でももうここには帰らないほうがいい、いつストーカーが戻ってくるかわからないし。大事なものだけまとめて、部屋が決まるまでは梅華のとこに泊めてもらいな、私の部屋はお嫌だろうから」

 嫌味たっぷりに言われ、高村はもう抵抗はせずにのろのろと支度にかかった。引っ越すのも面倒だが、倉橋に逆らったり説得したりするのはもっと面倒だ。
 飲み会の帰りに無理やりお持ち帰りされた夜以来、倉橋の部屋には一度も行っていない。あれは彼女流のジョークでからかわれただけだと高村は思っているが、それでもそんなきわどいジョークを言われたらもう部屋には行きたくなくなるのが道理だろう。しかもそのジョークの後遺症は大きく、あのとき飲み会に同席していた同期の坂下の誤解を解くのに何日もかかった。
 恵比寿のマンションまでタクシーで佐野が送ってくれるというので、とりあえず翌日の仕事に必要なものと身の回りの小物をツアー公演用のスーツケースに詰め込み、高村は住み慣れた四谷の部屋を後にしたのだった。

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