【2】 高村が梅団に入団したとき、倉橋はすでにキャリア6年目の売り出し中の若手男役だった。 花水木歌劇団ファンの間では倉橋真名といえば花水木歌劇団随一のセクシーキャラとして認知され、舞台姿だけではなく機関誌『月刊はなみずき』やファンミーティングなどでのナンパな言動も注目の的となっていた。オイルワックスで仕上げた濡れたようなウェーブヘアをかきあげ、派手なアクセサリーをじゃらじゃらと見せつけるファッションも、一見すると美少年にしか見えない色白の倉橋には下品にならず嵌っている。 その彼女のキャラクターを生かし、七月の銀座歌劇場梅団公演の顔見世舞踊ショウでは、倉橋が12人の娘役たちを従えてセンターで踊る場面が作られた。しかも、最初はパレオをまとっていた海辺の村娘たちが倉橋の色香に迷わされビキニ姿になって踊り狂うという演出になっている。 高村は、入団まもない一年生の仕事として、この場面で娘役たちが脱ぎ捨てたパレオを回収する係を命じられていた。高村が下手側、同期生の坂下梅華(さかした めいか)が上手側の担当である。 「ねえ君、次のリズムインまでに下手の袖にはけてくれないと私たち踊れないんだけど」 「はい、すみません」 高村は175センチの長身を小さく折り曲げて謝った。動きがとろいのは生まれつきだ。反対側で働いている坂下は目端が利く上に度胸があり、着替えが間に合いそうにない娘役の腰に自分から手を伸ばしてパレオをはぎ取るほどの大胆さを発揮している。 「下手の子たち、それじゃ間に合わないよ」 振付家からも指摘され、高村は冷や汗をかいてますます動きが鈍くなった。ぽんぽんと投げられる六枚のパレオをうまくキャッチして数秒のうちに引っ込むなど、高村には難しすぎる技である。 よろめき、つまずきながらも何とか作業をこなしていき、その場面が仕上がったとき高村はもうふらふらに疲れ切っていた。 「はい、今日はここまで。あとは各自さらっておいて」 仕事を終えた振付家は演出助手とともに出て行き、稽古場には団員だけが残された。 高村はこの後ふたたび今の場面を稽古するのだと思っていたが、倉橋がいきなりパンパンと手を叩いて皆を呼び集めた。 「カワイ子ちゃんたち、集合! もちろん一年生ちゃんたちも来て」 手招きされておずおずと先輩たちの集団に近づく。 「今からみんなで御飯行こう。8時にお店予約してあるから、急いで準備して7時半に守衛さんの前に集合ね」 娘役たちはいっせいにキャーと歓声を上げた。高村も、苦手なあの仕事から解放されたという一事だけで嬉しくてたまらなかった。食事について行けるなどとは思っていない。一年生には最後に稽古場を掃除するという役目が残っているからだ。 「お疲れ様でした」 お辞儀をして坂下と二人、掃除に取り掛かろうとしたところへ、倉橋に呼び止められた。 「君、名前なんだっけ」 一年生にとって、五年も先輩でしかもセンターで踊る場面を持つスターの倉橋は雲の上の存在だ。美しくてセクシーで人気者の倉橋が自分に声をかけてくれた。高村の頬は紅潮した。 「高村です」 「下の名前は?」 「杏里です」 「じゃ、アンリちゃんも梅華ちゃんも来てね。7時半に守衛さんの前。遅れないでよ」 スローモーションのウインクを浴びたとき、高村は、これが花水木歌劇団の男役というものならば自分には到底なれるはずがないと思った。実際にプライベートでウインクや口説き文句を多用している男役はかなりの少数派なのだが、まだ入団して1か月の高村はそんな事実を知る由もない。 ハワイ料理の店で大テーブルを囲み、総勢15名の女子たちの大宴会が始まった。二十歳になったばかりの高村は慣れないカクテルを次々に飲まされ、次第に朦朧となっていった。いちばん職歴の長い倉橋がなぜか隣にいて高村に酒を勧めてくるので断れない。遠くに座っている同期の坂下は中華料理店の娘で酒には強かった。坂下がいるから帰りは何とかしてくれるだろうという甘い見通しもあって高村は限界を超えて飲んでしまった。 「アンリ、大丈夫? 吐ける?」 ふと気が付くとトイレの個室でうずくまったままうたた寝しており、かなりの時間が経過していた。外からノックする声は倉橋だ。我に返り、大丈夫です、と答えようとしたがあまりの気分の悪さに声が出ない。 「開けて!」 二年間の養成所生活で、先輩の命令には従うという法則が身体に叩き込まれている。高村は個室のカギを開けた。そして、次の瞬間、倉橋に背中を抱かれ、口の中に指輪のついた指を入れられていた。 その後、どんな流れでどうなったのか高村はよく覚えていない。とにかく翌朝目を覚ましたら知らない部屋のベッドの中だったのだ。慌てて起き上がると服を着ていないことに気づいた。そして隣に倉橋が寝ていることにも……。 真っ青になって記憶を手繰っても何の手がかりもなく、高村はとりあえずシーツに体をくるんで息をひそめた。倉橋が目を覚ましたら何があったか聞くしかない。 眠っている倉橋は、起きているときとは違って無防備で純粋無垢な少女のように見える。表情が消えると生まれ持った素材の美しさが際立つのだ。高村の目が倉橋のきめ細かい肌に吸い寄せられたその時、睫毛が揺れて眉が動き、乾いた色の唇が開いた。 「……んー、おはよ」 全身でギクリとしたのを笑われて、高村はますます卵のように体を丸めた。 「おはよう、ございます……」 「ここ、私の部屋。覚えてないよね? 君が吐いて服を汚したから稽古着に着替えさせてそのままタクシーでここへ連れてきた。そこから先は、ナ・イ・ショ」 倉橋はベッドサイドに置いてあった眼鏡をかけてから起き上がり、クローゼットを開けて無造作に服を取り出すと、目のやり場に困るほどのナイスバディに派手な縞のシャツを着込んでいった。 「すみま、せん……ご迷惑、おかけしました……」 ナイショのあたりはともかく、雲の上のスターに大迷惑をかけてしまったことは間違いない。泣きそうになって謝る高村の上に、Tシャツとジーンズが投げられた。 「それ着て。早く出ないと稽古間に合わないよ」 高村は大急ぎで倉橋の香水の匂いがうっすらと染みついたTシャツを着、ウエストの少し大きいジーンズを履き、倉橋の運転する車で本部へ向かった。駐車場の使用が許されるのはある程度の役職以上からなのだが、倉橋はこっそりと近くのビルの駐車場を使ってマイカー通勤しているのだ。車の中で倉橋は大音量でラジオをかけながら発声練習をし始め、昨夜の出来事については何も説明してくれなかった。 駐車場で車を降りると倉橋は騎手が馬に鞭をくれるように高村の背中をぱしっと叩いた。 「早く寮に帰って稽古着取ってきな」 高村は弾かれたように走り出した。だが劇団本部ビルの中では通勤してきた職員や先輩団員たちを追い抜いて走るわけにはいかない。焦る気持ちを抑えて廊下を急いでいると、先輩男役の磯田未央(いそだ みお)が向こうからやって来た。磯田は劇団随一の美形と謳われる男役で政府広報のポスターにも起用されている。ファンの数もトップスターをしのぐほどに多く、次の準トップに就任することが決まっていた。梅団への配属が決まったとき、高村が一番最初に思ったことは「あの磯田未央のいる団だ」ということだった。 廊下の壁に張り付いておはようございますとお辞儀をした高村の前で、磯田が立ち止まった。 「あれ? そのTシャツ、よく似合ってるじゃない」 「恐れ入ります……」 「それ私のファンがデザインしてくれたTシャツなの。真名が欲しがったからあげたけど」 磯田はそれだけ言ってアンドロイドのように整った顔にニヤリと笑みを浮かべ、去って行った。 磯田の脳内に誤解が生まれたのかどうか、などという発想すらも高村にはなかった。とにかく一刻も早く寮の自分の部屋に戻って稽古着に着替え、この借りた服をクリーニングに出して倉橋に返さねばならない。先輩からもらったということは倉橋にとってきっと大切な服に違いないのだ。 特急でと頼み込んだクリーニングが仕上がったのはその日の夕方だった。高村は倉橋の休憩のタイミングを見計らって綺麗に畳まれた服を返しに行った。 「……倉橋さん。お洋服を貸して頂きどうもありがとうございました」 倉橋は紙パックのコーヒー牛乳をストローで吸いながら休憩所のベンチにふんぞり返って高村を見上げた。 「それだけ?」 「……いえ、あの、昨夜は酔ってご迷惑をおかけしてすみませんでした。ご自宅に泊めて頂いて本部までお車にも乗せて頂いて……、何から何までお世話になってしまって……本当にありがとうございました」 高村は必死の思いで頭を下げたが、倉橋は立ち上がり、空の紙パックを捨てて高村に近づいてきた。 「頭大丈夫? 君はね、飲まされてつぶされてお持ち帰りされて服脱がされてイケナイことされて、その上職場に既成事実ばらまかれたの」 直立不動でぴくりともできない高村に倉橋はやくざのように距離を詰めて囁いてくる。倉橋が高村より5、6センチ背が低くなかったら、簡単に唇が触れていただろう。 「ありがとうなんて言ってる場合じゃないんだよ、アンリちゃん」 「……記憶にありません」 困った高村がそう答えると、倉橋は高村の腰に片腕を回して無理やりベンチに座らせた。 「あのねえ、これは冗談じゃなくてマジで聞いてほしいんだけど、飲み会の席でも花水木歌劇団の一員だって自覚持たなきゃダメだよ。ちゃんと自分の限界わかってないと。悪い奴がいたらどうすんの?今度から私がいないときは飲酒は禁止……」 「真名がいなければ大丈夫でしょ」 笑いながら茶々を入れて廊下を通り過ぎて行ったのは磯田だ。倉橋はうるせーよと叫び返してから高村に向きなおる。 「とにかく。もっと自覚して警戒すること。先輩でも言われるままになっちゃダメ。君のこと狙ってる奴はいっぱいいるんだから。わかった?」 「はい……」 倉橋の昨日からの行動も今の言葉も矛盾だらけでいったい何を意図しているのかわからなかった。口ではいろいろ言っているが、高村には、後輩思いの面倒見の良い親切な人としか思えないのだ。 その日から、高村にとって倉橋は保護者のような存在になったのだった。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |