花ものがたり ―杏の章―

【1】


 楽屋口を出ると、春の匂いに全身が包まれる。生暖かい風が短い亜麻色の髪を吹き乱し、背の高い男役は俯いて足早にバスへと乗り込んだ。 彼女、高村杏里(たかむら あんり)はこの空気が苦手だった。春にはまったく良い思い出がない。
 学校で、職場で、新しいメンバーと顔を合わせるたびに少しずつ傷ついてきた。一目で生粋の日本人ではないとわかる顔立ちのせいで、初対面の人は皆高村を見てまごつく。そしてあまり関わり合いたくないような態度をとられるか、むやみに憧れを抱かれるかのどちらかだった。どちらにしても、目には見えないけれど決して越えられない線を引かれることに変わりはない。

「ねえ、アンリ。今日帰りにみんなで千鳥ヶ淵に夜桜見に行くんだけど、一緒に行かない?」

 バスの中で隣の席の同期に声をかけられたが、高村は微笑んであいまいに首を振った。

「……ごめん、ちょっと疲れてて……」
「そう、残念」

 断られることも想定済みだったのだろう、残念という言葉にもそれほど本気は感じられなかった。付き合いが悪いのは自分でももちろんわかっている。人と一緒に楽しい場所でそれなりに振舞うことが苦手なのだ。そして、それ以上に自分が周りの人にとって一緒にいて楽しい人であるという自信がまったくない。自分にとっても相手にとってもプラスにならないのならばいっそ断るほうが正しい判断ではないか。
 バスは銀座の喧騒を抜けて国会議事堂の前を過ぎ、花水木歌劇団本部ビルの通用口に到着した。荷物を抱えてバスを降りた団員たちは、本部の上階にある団員寮へ帰る者、連れ立って遊びに行く者、駐車場に自分の車を取りに行く者など三々五々に分かれていく。

「じゃあね、アンリ」
「お疲れ様。また明日」

 夜桜見物へ向かう同僚たちを見送って、東京メトロ霞が関駅の入り口へと鈍い足を向ける。
 同期からアンリと呼ばれている彼女は、花水木歌劇団の梅団に所属して今年で三年目の男役である。
 入団のきっかけは劇団からのスカウトだった。花水木歌劇団では団員OGの職員が全国の高校を回って就職説明会を開いている。その説明会で、職員に直接声をかけられ願書を手渡されたのだ。

「あなた身長何センチ?」
「175センチです」
「やる気さえあれば素敵な男役になれるわよ。ぜひご家族に話して受験を考えてみて」

 元男役だったというその職員は、高校生の高村の目にはあまりにも美しく眩しく見えた。フランス人の祖父の血が濃く現れた外見のせいでいじめられっ子だった過去からすっかり引っ込み思案な性格になってしまっていた高村にとって、思いも及ばない世界への誘いだった。
 今にして思えば、人事部のスカウトマンに直接「男役になれる」と断言されたということは合格の保証をもらったのと同じことだが、当時の高村には嬉しいというような感情はなかった。突然出会った美しい人が「こちらへ行け」と背中を押したから、それに従ってみただけのことだ。
 なぜ自分はここにいるのだろう、なぜ舞台に立っているのだろう……気を抜くとふいに頭をよぎる非建設的な疑問を振り払いながら、四谷駅の階段を降りマンションへの道を歩いていると、後ろからついて来る足音に気づいた。
 ―――これは、「あのひと」だ。
 一か月ほど前からだろうか、いつもこの駅からマンションまでの道のりの途中で誰かの気配を感じるのだ。曲がり角のショーウィンドウに駆け足で物陰に隠れる人影を見たこともある。ほんの一瞬目の端に捉えただけだが、思い違いでなければずんぐりとした体格の男性だ。
 自宅はしっかりとしたセキュリティの管理人もいるマンションなので、高村はそれほど心配していなかった。離れたところから見ていて気が済むのならそうすればいい。実害がなければ気にするだけ無駄だ。
 子供のころから、自分をこっそりと見つめてくる視線には慣れていた。そういう人々は、直接高村と関わろうとすることはほとんどないのだ。そういう人々にとって高村は動物園のライオンのようなものだった。安全なところから眺めて、仲間どうしでああだこうだと言い合えればそれで良い。それは花水木歌劇団の一員となってからも同じだった。
 オートロックのエントランスを抜けてエレベーターに乗り、6階で降りて部屋に入る。天井の灯りはつけずベッドサイドのランプだけで服を脱ぎ、しわくちゃのベッドにもぐりこむ。その日の出番が終われば楽屋風呂に入ってすっぴんになりジャージに着替えてバスに乗って、家に帰って寝るだけだ。運動経験もなく、養成所に入るまでまともにレッスンもしてこなかった高村にとって、睡眠時間は命綱だった。寝ないと体力がもたないから一分一秒を惜しんでベッドに入る……その一日の終わりの瞬間、インターホンが驚くほど大きな音で鳴った。

「誰……」

 夜にマンションを訪ねてくるような恋人や友人もいなければ、こんな時間に宅急便が届く予定もないはずだ。
 高村は仕方なく起き出してエントランスの訪問者を映し出すモニターの前に立った。そしてそこに写っている人を見て、息が止まった。
 あの男だ。
 駅からの道をただついてきただけではなく、エントランスで高村の部屋番号を押したのだ。高村は恐ろしさと後悔で頭がいっぱいになり、どうすればいいか考えることも身動きすらもできなかった。
 さらに追い打ちをかけるように、スマートフォンの振動する音が静かな部屋に響き渡った。冷静に考えれば電話番号などその男にわかるはずもないのだが、高村は恐怖にこわばった手でバッグの中から携帯を取り出し画面を確認した。表示された名前に思わず大きな安堵の溜息が出る。

「もしもし」
『アンリ? 今話して平気?』
「はい……あの、た、助けてください……」

 高村はようやくそれだけ言った。

『なに? どうしたの、今どこ? しっかり喋って!』

 相手の声の背後からはガヤガヤとした話し声が聞こえる。居酒屋かどこかにいるようだ。

「自宅です。知らない男の人がインターホン押してて……、知らないっていうか少しだけ知ってるんですけど、駅からついてきた人で、最近よく見かける……えっと、このひと月くらい何回かついてくるのを見ていて……」
『馬鹿、ストーカーっていうんだよそういうのを。絶対開けるなよ。すぐ警察に連絡して。アンリの部屋、モニターつきインターホンだよね?録画機能ある?』
「わかりません……」
『じゃあスマホで画面を撮影して。証拠になるから。私もすぐ行く。佐野君もいるから一緒に行くから。鍵さえ開けなければ大丈夫だからね、しっかりしなよ』

 切れた電話を握りしめ、高村は言われたとおりモニター画面を撮影しようとしたが、もう何も映ってはいなかった。男は諦めてどこかへ行ったのかもしれない。しかしエントランスへ降りてそれを確かめるのは危険すぎる。
 高村は電話の相手――同じ花水木歌劇団梅団に所属する5年先輩の男役、倉橋真名(くらはし まな)が演出助手の佐野武を連れて来てくれるのをただ待つしかなかった。

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