夏が終わろうとしていた。 花水木歌劇団梅団に入団して一年目の男役、杉山瑞穂(すぎやま みずほ)は、タンクトップにハーフパンツという男役としてはラフすぎる服装で夕暮れの稽古場を出た。もう日はほとんど落ちているが、刈り上げた頭を隠すためのキャップを目深にかぶっている。 入団後、オーディションで初めての役を勝ち取り、一か月の稽古と一か月の本番の公演を経て、瑞穂はすっかり梅団の戦力として認知された。彗星の如く現れた美形の大型新人に熱を上げるファンも何十人ではきかないほどだ。 だが、人の本質は、ほんの数か月で変わるものではない。 瑞穂は稽古場を出るとまっすぐに駐車場の単車置き場へ行った。そこで待っていれば、何時になるかはわからないが、愛車を取りに来る松団のトップスター・粟島甲子に会えるはずだった。 しかし単車置き場に粟島のスカイウェイブは影も形もなかった。もう帰ってしまったのかとがっかりしたとき、夏の夕方の蒸し暑さを吹き払うような涼しげな男役の声が聞こえた。 「何やってるの、そんな恰好で」 振り向くと、麻のラフなスーツ姿で大きな荷物を担いだ粟島が、呆れた顔でこちらを見ていた。 「よかった! 帰ってなかったんだ」 思わず大きな声を出すと、粟島はますます冷たい目をして溜息をついた。まだ一年目のくせに、大先輩のトップスターに対してこの口のきき方は、怒らせてもしかたがない。 「私を待ち伏せて告白でもする気?」 「いえ、ちょっと、その……布美子のことで話が」 駆け寄って声を潜める。布美子という名前を、人に聞かれたくなかった。 粟島はごく自然に瑞穂の腕をとって歩き出した。 「今は本部に公用車貸してもらって通勤してる。もうバイクには乗ってないよ、事故でも起こしたらシャレにならないし」 単車置き場の近くの、劇団所有の車が停めてある場所へ行くと、粟島は白い車のカギを開けて瑞穂に乗れと促した。 「話は車の中で聞く」 卒業式の夜に交わした布美子との約束……男役として舞台で惚れさせて、というその言葉は、なんと、初舞台で実現した。 芝居の一場面で、布美子の演じるウェイトレスが、瑞穂の演じる若い客と意気投合する。その後の場面で、恋人同士になったウェイトレスと客がいちゃつくという指示が与えられたのだ。 そして、この役がきっかけで、二人の間に微妙な問題が生まれてしまったのである。 なぜそれを粟島に相談しようと思ったのか、瑞穂は自分でもわからなかった。粟島は布美子の初恋の人であり、相手役にされそうになったところをすんでのところで奪い返したライバルでもある。 今も、団が違うというのに、何かというと粟島は布美子をかわいがっている。瑞穂は精一杯アンテナを張って、布美子が粟島に誘われたときは必ず無理やりにでも付いて行くようにしていた。だから時々三人で買い物に行ったり、観劇に行ってその帰りに食事をしたり、という仲になっている。 トップスターの粟島が他団の一年生二人をプライベートでよく連れているということは、劇団内でも話題になっていた。梅団のトップの倉橋に、「粟島さんのほうがいいなら松団に移れば?」と皮肉を言われるほどだ。 ひととおり瑞穂の話を聞いている間、粟島は眉一つ動かさなかった。 「……ふうん。どうしてそれで悩むの。別にいいじゃない、好きなんでしょ」 「それはそうだけど、でもよくないと思うんです、布美子には。あいつ何かあると全部私に言ってくるんですよね……前にもキスしてって言われたし」 「養成所のときのあれ?」 「そう」 「キスしてならOKだけど抱いてだと悩むのか」 粟島の軽い口調に瑞穂はむっとした。 「普通そうじゃないですか」 そしてふと不安が頭をもたげる。この人のモラルなら、もし布美子が頼ってきたら、断るだろうか。それとも、瑞穂の気持ちなどお構いなしにしれっとものにしてしまうのだろうか。 「ダメですよ、絶対」 「何が」 含み笑いはわかっていることの証明だ。 「絶対絶対ダメですからね?」 つかみかからんばかりに念を押したが、粟島は含み笑いをしたまま、瑞穂を挑発した。 「でも可哀想じゃない、杉山に振られた上に私にまで振られたら」 「またそういうこと言う! ほんとに粟島さんってどうしようもない人ですね」 「君が抱いてあげればいいだけの話」 何も言い返せない瑞穂をよそに、粟島は車のエンジンをかけた。 「うちに来るなら乗っててもいいけど来ないなら降りて」 「……行きます。ほかにも相談したいことあるんで」 粟島の家に行くのは初めてのことではない。布美子がよばれるたびに付いて行っているからだ。 だが、一人で行くのは初めてだった。 粟島は家に着くと、瑞穂がそこにいるにも関わらずさっさとスーツを脱いで着替え始めた。スタジオタイプのワンルームなので、隠れて着替える場所などない。瑞穂は目のやり場に困りながらとりあえずキッチン方面をうろついた。 「粟島さん何か飲む?」 「いいから座ってなさい。ここ私の家」 言われたとおりにソファに座ると粟島はほんの数十秒で白いシャツとスウェットのパンツに着替えて隣に座った。 「杉山、それで通勤してるの? よく怒られないね」 「怒られたけど、毎日これだからもう何も言われない」 「色気がないからいいのか」 ふん、と鼻で笑われ、瑞穂は腹が立った。タンクトップに膝上15センチのショートパンツという恰好を若い女がすれば、それなりにセクシーさが出るものではないのか。 「お言葉ですけど、これでも色気あるって言われてるんですよ、ファンの方には」 「ファンはありがたいね」 思わず粟島の肩を叩こうとしてしまって瑞穂はその距離の近さに改めてびっくりした。二人掛けのソファに一緒に座っていると、すぐに体が触れてしまうほどの距離感だ。 粟島は長い足を組んであくびをした。 「それで、相談したいことって」 「あ……」 今さらこの距離で、その話題を口にすることが、瑞穂には相当ためらわれた。だが、ここまで来て言わずにいるのも勿体ない。 「あの。……女ってどうやって抱くんですか?」 粟島は眉を寄せた。 「何しに来たんや」 クールな美貌の背後に一瞬にして大人のオーラがゆらめく。 「違う違う、そういう意味じゃないから!」 瑞穂はソファから背中を浮かせて必死に否定した。隙間から下着が見えるほどの薄いタンクトップ一枚しか着ていないことを突然意識し始める。 「この前、布美子とホテル行ったんです」 「へえ」 粟島の体が離れ、面白がっている表情に変わったので、瑞穂はほっとした。 「あんまりしつこいから、ちょっと本気見せたら引くだろうと思って……でも、服まで脱ぎだしちゃって」 そのときの異様な気まずさを思い出して瑞穂は溜息をついた。布美子に比べて自分はまったく腹が据わっていないのをどう誤魔化すかばかり考えていた。挙句、無表情で無言になってしまっていたのを怖いと怒られ、いろいろあって喧嘩になってしまったのだ。 「いざって時に、瑞穂のことは好きだけどこういうことがしたいのかどうかわからない、って言いだして」 「そうか。それじゃ手は出せないな」 馬鹿にされるだろうと思っていたのに、粟島の言い方は優しかった。 「私は別にやりたかったわけじゃないけど」 しかし、最初の思惑どおりに布美子が引いてしまったことは、瑞穂の心に複雑な思いを残した。このまま朝まで添い寝しないと気が済まないと言い張った布美子のために、一睡もしない一夜を過ごしたことも、思い出せば胸のどこかが治まらない。完全に相手に振り回されている。 「それで?」 粟島の鋭い目は、瑞穂の気持ちも何もかも見抜いているようだった。 「あの日から、布美子と冷戦状態で……」 なぜかはわからないが、布美子は怒っているようだった。瑞穂にしてみれば別に怒らせるようなことをした覚えはない。すべて相手の望むようにしてきたつもりだ。自分の気持ちを抑えて。 「今日はどうしたの、布美子ちゃんは」 「豊原とカラオケ行ってる」 「誰?」 「竹団の豊原志保。一年先輩の主任」 「ライバルが多いなぁ」 そのあまたのライバルの中でも最強の存在である粟島は、苦笑いしながら立ち上がり、無駄のない動きでコーヒーを淹れ始めた。 瑞穂は、豊原が養成所時代からいかに嫌味な先輩だったか、そしてそれなのに布美子がいかに彼女を慕っていたかということを説明した。劇団に入団してからも優等生を貫き、男役として頭角を現し始めている豊原は、団が違うというのにいまだにしょっちゅう布美子に声をかけてくるのだ。 湯気の立つコーヒーカップを瑞穂に渡して再び隣に座った粟島は、 「早く仲直りしたほうがいいんじゃないの」 とだけ言った。それはもう瑞穂にはわかりすぎるほどわかっている。今の不安定な布美子は、二人きりのカラオケボックスで、養成所時代から気心の知れた先輩に何を言うかわかったものではないのだ。 「でもお手上げなんです。布美子が何考えてるのか、全然……」 「傷ついてるんでしょ」 「え?」 瑞穂はびっくりした。そんなことをこの人がさっきのぼんやりした話を聞いただけでわかることが驚きだ。だが粟島は逆に呆れているようだった。そんなこともわからないのか、と。 「お前の覚悟が足りないからだよ」 頭を小突かれ、瑞穂は赤面するしかなかった。確かにその通り、ホテルに誘ったのは瑞穂のほうなのに、優しく接することもできず、翌日の稽古場から布美子は目を合わせなくなった。お互いにもう熟しきっているほど好きだとわかっている相手と一晩過ごして何もなかった理由を探し、悩んでいたであろうことは想像に難くない。 「どうしたらいいんだろ……」 「二人で旅行にでも行ってくれば? 近場の温泉とか」 さらっと返ってきた答えに、また瑞穂は驚かされた。 「よくそんなエロいこと考え付きますね」 「別に、付き合い始めのカップルが旅行に行って結ばれるってよくある事じゃないの」 「無理だよ今さら……」 「じゃ、なんでさっきあんなこと聞いたの? 抱きたくなったんでしょ。やってみればいい、自由に」 「自由?」 「男女じゃないから」 なるほど、そう言われればそうだが、かといって不安は消えない。男役だからというのはもちろん、布美子に比べれば高校時代に多少は経験があるのだから、少なくとも瑞穂がリードする立場だろう。やはりプレッシャーを感じてしまう。 粟島はコーヒーをすすりながら片脚を抱えて瑞穂の顔をちらりと見た。 「何ですか?」 「可愛いね」 そんな言葉を初めて言われて瑞穂はギョッとした。粟島は布美子に対してはしょっちゅう可愛い可愛いと言っているくせに、瑞穂には言ったことがないのだ。 「気持ち悪っ!」 粟島はわずかに肩を揺らして笑っている。淹れてもらったコーヒーの香りが立つ。 トップへ戻る Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved. |