末永く


『謹啓 
清秋の候、皆様にはお変わりなくお過ごしのこととお慶び申し上げます。
私共は一昨年六月に入籍いたしましたが、この度、二人の仕事がようやく落ち着きましたので、遅ればせながら結婚式を挙げることとなりました。
つきましては、日頃お世話になっております皆様にお集まり頂き、ささやかな披露宴を催したいと存じます。
ご多忙のところ誠に恐縮ではございますが、ぜひご出席を賜りたくご案内申し上げます。
永井 雄一郎
永井(旧姓・宇津見) 純』


 淡いピンク色の台紙に白いバラがあしらわれた招待状を見て、粟島甲子(あわしま こうこ)はクールに眉をひそめた。付き合っていた頃にはこんな少女趣味な人ではなかったし、ほとんど体だけの関係だったとはいえ元彼女に結婚披露宴の招待状を送ってくるような非常識な人でもなかったはずだ。
 たたんで封筒へ戻そうとしたとたん、横から覗き込んでくる頭に邪魔された。

「へえ、粟島も招待されたん?」
「はい。……才原さんもですか」
「当たり前やん、準トップとして三年も世話したったのに」

 この招待状を送ってきた新婦の旧姓宇津見純は、粟島が劇団員として所属している国立花水木歌劇団松団の元男役トップスターなのだ。宇津見はトップの任期中に極秘入籍するという前代未聞の離れ業をやってのけた。粟島が宇津見と付き合っていたのはもちろんそれ以前の話だ。

「それにしても、粟島、宇津見と仲良かったんか。知らんかったわ」
「私もですよ」

 なぜ招待状が来たのかわからない、というふうに粟島は肩をすくめて見せた。
 本当は才原に知られないうちに欠席の返事を出してしまえたらよかったのだが、知られてしまったからには命がけで誤魔化すしかない。
 宇津見純のトップ時代に準トップをつとめ、彼女の退団後に松団トップを引き継いだのが才原霞(さいばら かすみ)だ。そして今は粟島が才原の下で準トップをつとめている。

「出席するやろ? 十月の三十日やったら公演終わってるし」
「……ええ、はい」
「じゃ一緒に行こう」

 断れるはずがない。上司の誘いだからではなく、最愛の人の誘いだからだ。


 十月三十日、日曜日、大安。
 宇津見純の結婚披露宴当日の朝は、粟島の心の中を映したような怪しげな雲行きだった。
 現在の恋人と二人で過去の女の披露宴に出席するなんて、さすがの粟島も経験したことがない。しかも現在の恋人は抜群に勘が良いときている。果たして無事に済むのかどうか――。
 冠婚葬祭に出席する際は、劇団員の正装である松竹梅の黒留袖に団カラーの袴を身に着けると規則で決められている。粟島は松団の深緑色の袴を着て化粧と髪型を整え、マンションの玄関で才原が迎えに来るのを待った。まるで秘密のドライブデートに出かける女の子の気分で。
 向こうから来るプリウスのナンバーがレンタカーなのを確認して粟島は歩道へ出た。止まった車の運転席の窓が開き、才原が窓枠に肘を突き出す。

「おはよう。本日はお日柄もよく」
「おはようございます。すみません、迎えに来ていただいて」
「いいよ、私酒飲まへんし。あ、言い忘れてたけど、これから金子の家寄って戸澤拾ってから行くから」
「……わかりました」

 テンションが下がったのを見抜かれたらしく、才原は助手席に座った粟島を見てニヤニヤした。

「二人きりやなくて悪かったな。今度ドライブでも行こうか?」
「お望みなら」

 それはいい考えかもしれない。人目を気にせず二人だけの時間を楽しめるし、この仕事をしていればどうしても狭くなってしまう生活空間の中から抜け出せる。同期の金子つばさも、恋人のトップスター戸澤愛と一緒によくドライブに行くと言っていた。
 行先はどこがいいだろう。街中よりも人里離れた渋滞のないところがいい。山道も海岸線もあるところで、途中に立ち寄れるスポットがあればなお良い。やはり鎌倉あたりか……と妄想をふくらませていると、バックミラーで運転手に笑われているのに気付いた。

「粟島、最近わかりやすい」

 反射的に表情を消しそうになってやめた。もう格好つける必要も取り繕う必要もないのだ。才原は観客でも仕事関係者でもなく、恋人なのだから。

「何がわかったんですか?」
「やらしいこと考えてるやろ」
「まさか」

 わかりきった嘘をつき、粟島はゆったりと車窓に頬杖をついた。
 才原の運転する車に乗っているというだけで粟島は胸の高鳴りを抑えきれない。ハンドルを切るたびに袂が揺れ、細い手首がちらりとのぞき、抹茶のような香水の甘い香りが立つ。さっきからショートカットのうなじにそそられているのも、鎌倉ドライブの一泊についてプランを練っているのも、才原にはお見通しのようだ。
 以前の粟島なら本心を悟らせたくなかったが、今はむしろ、何も言わなくても思いが伝わっているのが心地よい。これから宇津見の結婚披露宴に出席するなどという気の重い用事がなかったらと思わずにはいられないが、そもそもその用がなければ才原とこうして車で移動することもなかったのだから、考えるだけ無駄というものだ。

「金子の家、どこから曲がるんやったっけ」
「その先のガソリンスタンドですよ」

 金子と戸澤の住むマンションは、渋谷区の、幹線道路からほど近い住宅街にある。才原はマンションの駐車場に車を入れると、粟島に向かって「行け」と親指でエントランスを指した。

「戸澤呼んできて」

 粟島は言われた通り車を降りて通いなれた金子の部屋へ向かった。戸澤が居候するようになってからは足が遠のいてしまったが、昔は何かあると夜中に呼び出されて愚痴を聞かされていたものだ。
 築年数は古いが手入れの行き届いた分譲マンションを購入し、リフォームして暮らしている金子は、六本木の家賃の高い賃貸に見栄を張って住んでいる粟島よりもずっと地に足がついている。自分の家といえるものがあったら人生への考え方もまた変わるのだろうか。

「あっ甲子! 迎えに来てくれたの? 愛さんまだ支度できてなくて……」
「早くしろって言って」

 披露宴に招待されていない金子は、膝丈のワンピースにカーディガンを羽織り、フリルのエプロンまでしている。休みの日に自宅でどんな格好をしようと当人の勝手だが、現役の男役が若妻のコスプレかと粟島はこっそり呆れた。
 そのとき、からし色の袴をつけた戸澤愛が急ぎ足で玄関へ出てきた。きっちりと櫛目の通ったリーゼントヘアが頬の高い骨格に映え、肩幅も胸板の厚みも堂々として、紋付袴が本当によく似合う。これぞ花水木歌劇団のトップスターの風格だ。
 しかしその立派さは、口を開いたとたんに崩れ去った。

「甲子ちゃんお待たせ。ごめんねバタバタしちゃって」

 戸澤は焦った様子で草履に大きな足をつっこんだ。

「愛さん、御祝儀忘れてる!」
「あ、危ない危ない」
「他は大丈夫? 忘れ物ない?」
「だいじょぶー。あ、一個あった」

 戸澤は振り返り、見送りに出てきた金子を手招きすると、粟島の目の前で恥ずかしげもなく唇にチュッとした。ここまでされるともう何も言えない。

「行ってきまぁす」
「行ってらっしゃい、帰りは迎えに行くね」
「うん。じゃ、あとで」

 再び才原の車へ戻り、戸澤が後部座席に収まったところで粟島は才原に文句を言った。

「わざわざ迎えに行かせるなんてひどいですよ」
「なんで?」
「生々しいものを見せられました」

 才原はさも狙い通りといった様子で大笑いしながら車を発進させた。後ろの席では戸澤が聞いていないふりをして鼻歌を歌っている。
 披露宴の会場は、横浜のみなとみらい地区にある高級ホテルだ。カーナビに頼るまでもなく、第三京浜道路をひたすらに南へ走る。車中ではもっぱら数日後に初日を迎える竹団公演の制作裏話で盛り上がり、今日の主役の宇津見の話はひとことも出てこなかった。



 横浜のホテルへ到着すると、ついに秋の雨がぽつぽつと降りだした。
 ドアボーイに車を預け、広いエントランスを入ったとたん、ロビーじゅうの人々の視線が袴姿の三人へそそがれた。粟島は居心地の悪さを感じたが、才原も戸澤もにこやかに周囲の人々に会釈している。休日だろうとプライベートだろうと、こういう場所へ来たらもう公人なのだ。粟島はまた一つ自分の至らなさを発見した思いだった。
 披露宴会場は、ガラス張りの壁越しに横浜港が一望できる贅沢なロケーションのパーティールームだった。とはいっても、空も海もどんよりとしたグレー一色なのだが。

「わあすごい! いい眺めだねえ……」
「お天気に恵まれればもっと良かったですね」
「あいつ昔から雨女やったからな」

 花水木歌劇団関係者が集められているテーブルには、粟島たち三人のほかに、元松団のトップで現在は歌劇団事業部長の大路理恵子と、宇津見の相手役だった姫野京子が座っていた。大路はミセスらしい上品な藤色の訪問着、姫野は華やかな黒地の振袖を着ている。
 三人がテーブルに近づくと、大路はクールに片手を上げ、姫野は嬉しそうに立ち上がって両手を振った。姫野は宇津見が退団したとき同時に歌劇団を退職し、実家の呉服店を手伝っている。

「ああっ才原さん戸澤さん粟島さん、お久しぶりです。めちゃくちゃ懐かしいですその制服」
「あれからもう二年やもんなあ。姫ちゃんも元気そうやな。呉服屋さん儲かってる?」
「まあぼちぼちです。今は着物雑誌のモデルのお仕事頂いてて、そっちのほうが忙しいかも」
「へえ、そうなんや」

 姫野の早口で蓮っ葉な喋り方は現役の頃と変わっていなかった。豪胆で細かいことを気にしない姫野は、神経質すぎる宇津見の相手役にぴったりだったのだ。
 粟島は大路に会釈をし、才原と戸澤が座るのを待って自分の席についた。

「粟島君も来るとは思わなかったわ。宇津見君と親しかったのね」

 痛いところを突かれ、粟島は微笑み返すしかなかった。

「ええ」
「そうなんですよ大路さん。こいつ知らんうちに宇津見と関係あったみたいで」
「その言い方はちょっと……」

 まさか、知っているというのか。
 粟島は全力でポーカーフェイスを装いながら才原の横顔を見た。だが、才原の表情はあくまでも楽しげで、いつもの軽口だったようだ。
 新郎側新婦側合わせても八卓ほどのこぢんまりとした披露宴は、つつがなく進行していった。
 宇津見は首のつまった長袖のクラシカルなウエディングドレスに身を包み、カールしたショートカットに似合う短いベールをつけている。もちろん現役時代からそうだったが、本当にスタイルが良くて美人だ。燕尾服姿の新郎のほうは、見るからに宇津見にベタ惚れというのがわかる気のよさそうな男で、もともとはスポーツマンタイプなのだろうがすでに幸せ太りがかなり進んで腹が出ている。
 司会進行役の男性が二人のプロフィールを読み上げた。

「そんなお二人が出会われたのは文化庁主催のロシア王立歌劇場歓迎レセプションでした。日本側のおもてなしとして舞踊を踊られた純さんに、外務省のロシア担当だった雄一郎さんが一目惚れされたということです。ロマンチックな出会いですね」

 仲人口とはよく言うが、格式高い披露宴では二人の出会いすらも演出過多になるらしい。確かにレセプションで姿を見たのかもしれないが、初めて口をきいたのは見合いの席だろう。
 粟島は冷めた気持ちで式の進行を眺めた。ケーキ入刀はいいとしてもフォークを使った食べさせ合いなどは人前ですることか、と思う。こんな恥をかくくらいなら死んだほうがましだ。
 粟島は友人の披露宴に招かれたとき、うらやましいと思ったことは一度もなかった。もちろん花嫁はみな素晴らしく輝いている。だがこれほど美しい女性が、隣で鼻の下を伸ばしている野暮ったい男のものになるとは何とつまらなくもったいないことだろうとしみじみ思うのだ。
 宇津見は良い意味でも悪い意味でも花水木歌劇団のトップスターにしては珍しいほどありきたりな普通の女だった。粟島と関係を持っていた頃から、早く結婚して劇団をやめたいと口癖のように言っていた。そうすることもできたのに最後までトップの任期を全うしたのは、劇団や観客の期待を裏切れない宇津見の生真面目さだろうが、粟島は舞台に命を懸けられないなら早くやめてしまえばいいと思ったものだ。
 何度も粟島に抱かれていながら、女は「本当の相手」にはならないと思っているのを隠そうともしない宇津見の言動が悲しかった。当時、粟島は宇津見のことが少しは好きだったのだ。
 当然ながらそんな粟島の思いなど、一生に一度の幸せをかみしめている当人たちには関係のないことだった。式次第はテーブルごとの記念撮影にうつり、宇津見は得意げに微笑みを浮かべて花水木歌劇団関係者のテーブルへと回ってきた。新郎は新郎側のテーブルを回っている。
 粟島は顔には出さずに警戒を強めた。万が一、才原の前で昔の関係をにおわせるようなことをされたらすぐに誤魔化さなければならない。

「おめでとう、純ちゃん。すっかり女の子に戻っちゃって、素敵な花嫁さんね」
「ありがとうございます、大路さん」
「純さんおめでとうございます!」
「ありがとう、ヒメ」

 若い姫野は素直に目をきらきらさせている。

「おめでとう。披露宴なんでこんなに遅かったん?」

 宇津見は意外なことに才原を見ていちばん大きな笑みを浮かべた。在団中は苦手な相手だとさんざん愚痴を聞かされたのに。

「才原さん! 御無沙汰しています。旦那の海外赴任でなかなかタイミングがなくて……」
「そうやったんや。宇津……やなかった、純も海外付いて行ったん?」
「ええ、一年間、モスクワにいました」
「大変やったなあ」

 劇団を離れればあの二人がこんなに和やかに会話できるものなのかと粟島は少し驚いた。当時を知っている姫野も鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。才原の厳しさは仕事のためのもので、本来は温かい人なのだと、宇津見も心の底ではわかっていたのだろうか。
 いよいよ宇津見の視線が才原の陰にいる粟島をとらえた。粟島は普段どおりの無表情を保って会釈し、おめでとうございますと言った。

「甲子、久しぶり。来てくれてありがとう」
「こちらこそお招き頂いてありがとうございます」
「仕事は順調?」
「はい、おかげさまで」
「才原さんの下でやるの大変でしょ」
「いえそれほどでも」

 色めき立つ才原よりも素早く即答する。

「ちょっと、失礼なこと言わんといて。純みたいに世話の焼けるトップやないで私は」
「異議あり」

 テーブルの全員がどっと笑い、粟島は無意識に突っ込んでいた自分に気づいてぞっとした。付き合いが深くなるにつれ才原との会話が漫才めいてしまうのを抑えようがないのだ。

「ね、絶対二人とも呼んだほうがいいって言ったでしょ?」
「本当だわ」

 くすくすと笑い合う戸澤と宇津見の二人を見て粟島は悟った。
 この、メイン料理のステーキを隣の才原の分まで二人分たいらげて満足そうにしている大女がすべてを仕組んだのだ。

「甲子ちゃんがいると才原さんの面倒みてくれるから助かるんだよね。甲子ちゃんがいない仕事のときなんか、相手するのが大変でさあ」
「わかるわかる」

 粟島は宇津見との過去の繋がりのせいで招かれたのではなく、才原のお守をさせるためにセットで招かれただけだったようだ……しかも戸澤の提案で。粟島は少しだけほっとした。

「全部聞こえてるで、戸澤」
「怒らないでくださいよ。さっき才原さんが嫌いなお肉食べてあげたでしょ」
「でもデザートと交換言うたのにデザートくれへんかったやん」
「あ、忘れてた」
「デザート返せ! せっかく美味しそうなプリンやったのに!」

 トップスター二人の間で低次元な争いが始まったので、粟島はつい口を出してしまった。

「子供ですかあなたたちは……。早く写真撮らないと次のテーブルの方が待ってますよ」

 主役の花嫁を囲むように才原たちを並ばせる粟島の耳に、大路と姫野の会話がちらほらと入ってくる。

「すごい、粟島君が仕切ってる」
「なんだか今の花水木歌劇団を垣間見ちゃった感じで、新鮮ですね」

 なんとか記念撮影が終わり、その場ですぐにプリントアウトして配られた写真は、ウエディングドレスの宇津見の隣にでんと座った紋付袴の戸澤がまるっきり新郎にしか見えないギャグのような一枚だった。
 全テーブルの記念撮影が終わると、両親への花束贈呈が行われ、お色直しも余興もない短い披露宴はおひらきになった。
 帰り際、出口で招待客が一人ずつ新郎新婦から引出物を受け取るとき、粟島の順番は花水木歌劇団関係者の最後だった。

「どうぞお元気で、お幸せに」
「甲子も幸せになってね」

 宇津見はそう言って微笑んだ後、先に出て行った才原をちらりと見やって、粟島の耳にだけ聞こえる声でささやいた。

「あの人と」

 粟島はこの時ほど普段からポーカーフェイスを鍛えておいてよかったと思ったことはなかった。その習慣のおかげで、何も聞こえなかったかのように眉ひとつ動かさず頭を下げることができたからだ。内心は山火事のように熱い嵐が吹き荒れていたが。



「ふふふ、ブーケもらっちゃったから次は私の番かな。じゃあね、お疲れ様でした」

 粟島にとって今日の諸悪の根源である戸澤は、親友から渡されたピンクの薔薇のブーケを手に、ホテルの前まで迎えに来ていた金子の白いベンツに乗り込んでさっさと帰って行った。
 宇津見に才原と粟島の関係をリークしたのは十中八九戸澤だろうが、そのことを責める気はもうない。なんとか才原の機嫌を損ねることなく披露宴を乗り切ったのだから、それでよしとしよう。
 雨は、まるで披露宴がおわるのを待っていたかのように止んだ。海の上の空は薄青く輝き、対岸が白くかすんでいる。
 待ち望んでいた帰り道になったとたんこの天気だ。粟島には、忙しい二人に神様がくれたプレゼントのように思えた。
 才原はカーナビに赤い線で示された帰路を無視して海側の観光ルートを選んでいた。遠回りをして帰りたい気分は同じらしい。

「引出物、何が入ってるか見て」

 粟島はホテルの名前の入った小ぶりな紙袋を覗き込んだ。田舎くさいこととは無縁の宇津見の選んだ引出物は、ロシア産の高級キャビアと松竹梅の蒔絵の万年筆一本、そしてピエール・マルコリーニのチョコレート二粒だった。

「キャビアか。粟島、私のも持って帰ってええよ」
「才原さんの家で飲むとき頂きます」
「またそうやって家に粟島の物が増える」

 才原宅の、野菜しか入っていなかった冷蔵庫にはアルコール類が並び、甘い菓子しか置いていなかった戸棚にはつまみが交じり、ガラスの棚には使いかけの香水が増えた。シンプルすぎる部屋が近頃は少しだけ雑然としてきて、才原はそれが気に入らないようだ。

「すいませんね」
「ええけど別に」
「今まで誰かと一緒に住んだことないんですか?」
「寮出てからはずっと一人やで。粟島以外家に上げたこともない」

 意外な驚きと嬉しさにただ無言でいることしかできない粟島をよそに、才原は赤レンガ倉庫の前の広場に車を止め、窓を開けて煙草を吸い始めた。

「ああ疲れた。ほんま結婚式って精魂吸い取られるわ。もうこれからは招待されても行くのやめようかな」

 才原の煙草から火をもらいながら、粟島はふといたずらな気持ちになった。

「いつか私の結婚式には来てくださいね」

 案の定、才原は不意をつかれたような表情になった。

「粟島、結婚するつもりなん? そうか、子供好きやもんな」

 明るい口調とは裏腹の寂しそうな瞳にたまらず抱きしめたくなる衝動をこらえて、粟島は窓の外へと煙を吐き出し、言った。

「私が欲しいのは子供じゃなくて、子供みたいな年上の嫁さんですよ」

 言ってしまってからこれはプロポーズだと気付いたが、もう遅い。才原は笑うだろうか……それとも怒るだろうか。粟島は数年ぶりに、自分が赤面しているのを感じた。心臓の鼓動が喉元で鳴り響く。
 才原はくわえ煙草でゆっくりと両手をハンドルの上に置いた。

「このままアクセル踏んで海に突っ込んでもいい?」

 乗っている車ごと突っ込みを入れるというのが彼女の答えのようだった。

「次の舞台に穴開けてもいいならどうぞ」
「嫌なこと言うなあ」

 才原はようやく笑って、煙草の火を消した。

「ありがとう。その気持ちだけで十分や。ほんまにもう今死んでもいいくらい、幸せ」
「才原さん……」

 この人は何を諦めているのだろうか。今日を生きられれば明日はいらない、というようなところが才原にはあった。いつ引き払ってもいいような片付いた部屋。翌日のことなど考えないパワー全開の舞台。必要最低限の栄養しかとらない食事。毎回これが最後のつもりかと思わせるほどの情熱的なキス。

「そんなこと言わないでください。これからもずっと一緒にいますから」

 真剣に言うと、才原の横顔から笑顔が消えた。

「先のこと約束しても、その瞬間から人の気持ちも周りの事情も何もかも変わっていくもんや。流れていく川みたいにな。せやからもう言わんといて。今隣にいてくれることが嬉しいの」

 何があったのかはわからないが、これが才原の人生観なのだろう。

「じゃあ、約束じゃなくて今の私の気持ちを言うだけならいいでしょう?」
「うん。何?」
「あなたと末永く幸せでいたい」
「まあ、それは、私もそういう気持ちやけど、実際そうなるかは……」

 続きを言わせず、粟島は才原の唇をキスでふさいだ。手から煙草をもぎ取って窓の外へ捨て、運転席のシートを倒す。今は才原しか見たくなかった。


 都内へ戻ると、車窓の景色も見慣れた風景へと変わる。

「やっとここまで来た。やっぱり横浜は遠いな」
「夕方になって道が混んできましたからね」
「違います。才原さんのせいです」

 無表情で言い返すと、才原の白い耳たぶがほんのりと赤くなった。
 花水木歌劇団の団員は、自分も含め、今のことだけ考えていないと生きていけないのかもしれないと粟島は思った。宇津見はトップをやめた後の人生が長いということに早く気が付きすぎてしまったせいで悩んでいたのだろう。

「そう言えば、宇津見とデキたきっかけ、何やったん?」
「……は?」
「三年ぐらい前、宇津見と付き合ってたやろ。私が気付いてへんとでも思った?」

 才原は知っていたのだ、最初から。
 今日の気苦労はいったい何だったのだろう。才原の左頬には猛烈に人の悪い笑みが浮かんでいる。招待状を見て「宇津見と仲良かったんか」などととぼけながら、隠そうとする粟島を見て心の中で面白がっていたに違いない。

「何それ……騙してたんですか」
「だってむかつくやん。元カノの披露宴によばれてんねんで。私というものがありながら」
「行かへんつもりやったんや! お前が誘うさかい断るタイミング逃したんやろがボケ」

 つい大阪弁で思いっきり本音を怒鳴ってしまい、我に返ったときにはもう後の祭りだった。才原は涙を流しながら大笑いしている。

「そっちのほうがカッコええで、粟島」

 粟島は全力で不機嫌なふりをして才原をにらんだ。

おわり
トップへ戻る
Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved.
inserted by FC2 system