毛布の中で


 他人に体を弄られる緊張から解放されてくったりと眠る井之口の寝顔を、磯田は闇の中でぼんやりと見つめていた。
 自分よりも年上の女性のはずなのに、化粧をしていない小さな顔は無垢な少年のようだ。
 可愛いなあと思いながら眺めているうちに、僅かに開かれたその唇にキスしたくてたまらなくなってしまった。キスだけならしてもいいのだが、一度触れればその先まで止まらなくなってしまうという確信がある。

「……もう寝ないと」

 きっと時刻はもう午前一時を過ぎているだろう。明日も大事な舞台が控えている。磯田は自分を抑えて目を閉じ、井之口に背を向けるように寝返りを打った。

「……毛布独り占めすんなよ……」

 不意に聞こえた怒ったようなかすれ声に振り向くと、寝ぼけているに違いない井之口がもぞもぞと背中に張り付いてきていた。磯田が寝返りを打ったせいでシングルサイズの毛布が磯田のほうへ引っ張られてしまい、その短い端に無理やり潜り込もうとしているのだ。

「ごめんごめん、寒かったね」

 下着姿の井之口のためにしっかりと顎の下まで毛布を着せ直してやると、井之口は磯田の背中になど未練はないとばかりに毛布を抱きしめて満足げな溜息をついた。
 少しだけ面白くなくて、磯田はつい愚痴っぽくぼやいてしまう。

「夕子はそれさえあればご機嫌だよね」
「……これ、あったかくて落ち着く……。未央の匂いするし……」
「どうせ本物に抱き着くより毛布のほうがいいんでしょ」

 肘をつき、自分の手を枕にして井之口を上から覗き込むと、眠そうな顔のまま、「当たり前じゃん」と返された。
 わざと唇をとがらせて寂しげに「冷たいなあ」と言ってみたが、井之口は顔色ひとつ変えない。もう傷ついたふりをするという手も通じなくなってきたようだ。

「……未央……」
「ん?」
「俺なんか抱いて、何が楽しいの?」

 奥手で、普段あけすけには物を言わない井之口が突然そんなことを言い出したので、磯田はびっくりした。いったい何があったのだろうか。
 磯田はわざと方向を微妙にずらして明るく答えた。

「楽しいよ。夕子が好きだから」
「またそれかよ……」

 愛おしくてたまらない唇から長い溜息が漏れる。
 そういえば、年末あたりから、磯田に何か言いたいことがあるようなそぶりを見せることが時々あった。自分のやり方が強引すぎるという自覚はもちろん磯田にもある。同居も何もかも相手の同意などおかまいなしに進めてきた。拒絶されなかったからといって、歓迎されているわけでもない。
 不意に不安が冷たく胸の内に広がった。

「夕子はどうなの?」
「……別に……未央がいいならそれで……」

 闇の中でも赤くなったとわかるほどぶっきらぼうな小さな声で返ってきた返事に、磯田は安堵して、笑ってしまった。

「そっちじゃなくて。私が好きかどうかってこと」
「…………」
「好き?」

 長い沈黙に耐え切れずにもう一度畳み掛けると、井之口は毛布の中にいっそう深く潜り込んで、かすかに頷いた。
 先ほどから井之口の声と溜息に神経の中枢を揺さぶられていた磯田は、その様子を見て完全にスイッチが入ってしまった。

「じゃあ、もう一回しよう」
「……はぁ? もうやだよ……」
「できるできる」
「できない!」

 怒った井之口は毛布を引っ張って完全に磯田から奪い取り、蓑虫のようにしっかりくるまってそっぽを向いてしまった。ねえねえ、とつついてもまったく反応を返してくれない。

「あーあ、毛布に負けた」

 さっきのかすかな頷きが井之口の一世一代の告白だったことなど気付くはずもなく、磯田はがっくりと枕の上に討死したのだった。


おわり

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