タンゴ


 休み明けの火曜日、竹団の稽古場はいつも以上の熱気にあふれていた。顔見世舞踊ショウの最初の通し稽古が行われるからだ。
 今まではひとつひとつの場面を個別に振付し、稽古をしながら細かいところまで作りあげてきた。それらの場面が初めて冒頭から最後まで通されることにより、ショウの全体像が明らかになる。その期待感からか、劇団員たちはいつもよりも真剣で、表情にも抑えた興奮の色がみえた。
 竹団の一人一人がウォームアップを済ませ、緊張気味に自分の立つべき位置へと動いている中で、ひときわ気合いの入った瞳をギラギラと輝かせている男役がいた。
 竹団準トップの金子つばさだ。
 よく動く表情と跳ねがちな癖毛、そして手足の長い筋肉質な体が、少年のような雰囲気を醸し出している。

「愛さん、今日もよろしくお願いします!」
「はーい」

 対照的に眠くてたまらないという口調で返したのは、竹団を背負うトップ男役の戸澤愛だ。
 もうすぐ通しが始まるというのに、センターポジションの床の上にべったりと座ったまま、水を飲んだり、タオルをどうやって首に巻けばいいか試しながらひねくりまわしたりしている。
 戸澤は、いい意味でも悪い意味でも、『トップスターとはこうあらねばならない』という意識がまったく感じられないスターだった。
 今日は通し稽古だからと、他の団員たちは舞台衣装を意識した襟立てシャツなどを羽織っているが、戸澤はいつも着ているだぼっとしたTシャツ一枚だし、髪の毛はセットする手間がかからないようにベリーショートにしていて、しかもノーメイクである。それなのに、百七十八センチの長身とスーパーモデルのような体のバランスからは、誰にも真似のできないオーラが発散されているのだ。

「愛さんもう始まりますよ。お水」
「あ、うん」

 金子の差し出した手にぽんとペットボトルを渡して戸澤はようやく立ち上がった。金子がペットボトルを急いで戸澤の椅子に置きに行き、自分のポジションに戻るか戻らないかのうちに、演出家がメガホンをとる。

「それではショウの通し稽古を始めます。第一場プロローグAから」

 今回の顔見世舞踊ショウは、タンゴがテーマになっている。
 まずプロローグは男役全員の群舞。それから交代して娘役全員の群舞になり、続いて五組のカップルのタンゴを見せる。
 そして娘役トップの久米島紗智がラテンの曲を一曲歌った後、トップの戸澤と準トップの金子の二人が組む男役同士の激しいタンゴシーンになる。
 その男役同士のタンゴの場面が金子は嬉しくてたまらなかった。普通、ダンスでは男役と娘役が組むので、男役が二人で組んで踊るチャンスというのはなかなかないのだ。
 しかも、恋人と堂々と抱き合い、熱々ぶりを周囲に見せつけることができる。
 金子は戸澤と恋愛関係にあり、最近同棲を始めたばかりだ。竹団だけではなく歌劇団の団員でそのことを知らない者はいない。戸澤は隠さないし金子は自慢したくて仕方がないからだ。
 しかし仕事場にはそんな慣れ合いは持ち込めないし、ファンにもあまり知られてよいものではない。
 だからこそ、戸澤とのタンゴには気合いが入る。ここで抜群のコンビネーションを発揮し、観客をあっと言わせる名場面を作ってみせなくては、公私ともにパートナーである金子のプライドが許さない。
 久米島の歌が始まり、金子は癖の強い赤髪をもう一度撫でつけて、下手の袖の位置にスタンバイした。

「ちょ、ちょっと待ってください! すいません」

 大切な場面だからとひときわ集中して臨んだ金子だったが、組んで踊り始めたとたんに曲の流れを止めてしまった。

「どしたの」

 戸澤は不思議そうな顔で金子を見下ろす。金子は抗議の叫びをあげそうになり、かろうじて団員の前であることを考えて声を抑えた。

「どうしたのじゃないですよ愛さん! 近すぎます、ポジション……」
「こないだ、先生に、体離れすぎてるって注意されたんだ」
「それにしてもこんなにくっついてたら踊れませんって!」
「踊れる。ビデオの人は踊ってた」
「それはプロだから……」
「私たち、プロじゃないの?」

 戸澤の目が少しだけ細められた。芝居以外で戸澤が感情を顔に出すのは珍しい。相当怒っているようだ。

「すみません。そうじゃなくて、この距離じゃ私、踊れないって……」
「つばさはいつもどおり踊ればいいんだよ。ぶつかるとか考えないで。絶対大丈夫だから」

 じゃあもう一回頭から、と言われて金子は戸澤ともう一度ホールドをした。が、そのとたんに怒られた。

「足の位置が違う。ここ!」

 戸澤は自分の真下の床を指さした。両足の間に足を入れろというのだ。

「ええっ」

 お互いに腰を抱き合い、反対の手も握り合っている状態で、さらに足まで絡めるとは、金子にはもういっぱいいっぱいを通り越した状況だった。心臓は喉元で鳴っているし、顔が赤ではなく真っ青になっているであろうことが唯一の救いだ。戸澤の体温と匂いと感触が、ほとんど全身を包んでいる。金子はもはやタンゴどころではなく、戸澤のことしか考えられなくなってしまった。
 しかし曲は流れだし、鍛えられた体は勝手に踊り出す。
 歌劇団きってのダンスの名手である戸澤の足さばきは、鮮やかすぎるほど鮮やかでしかも柔軟だ。金子がどう踊っても余裕で付いてくる。
 しかし金子は稽古してきたことの半分も踊れなかった。ぴったりくっついている相手の体を意識せずに踊るには慣れが必要だ。

「もっとこっちに体預けて」

 戸澤に囁かれ、この顔の距離でそのセリフは反則だろう、と金子は心の中でうめいた。これでプライベートな時間を思い出さないでいられるほうがおかしい。
 団員やスタッフに見せつけたいなどと考えていたことを金子は深く反省した。こんな状況はある意味拷問のようなものである。戸澤はどうして平気でいられるのだろうか。
 ようやく最後のポーズが決まり、上手へ捌けた。
 金子は肩で息をしながら床に崩れ落ちる。結局、ほとんど息をとめて踊っていたのだ。

「つばさ、だいじょぶ?」
「愛さん……顔、近すぎですから……」

 金子が息も絶え絶えに抗議すると、戸澤は首にまいていたタオルで口を押さえた。

「ごめん、お昼パスタ食べたんだ、ペペロンチーノ。にんにく臭かった?」

 金子はもう一度改めてがっくりと肩を落とした。この人は本当に自分のことを恋人だと思ってくれているのだろうか。

「なんで今になってポジション変えたりするんですか? 振付のとおりなら踊れたのに」
「んー。普通に踊ったって、つまんないじゃん。つばさと私だからできるタンゴじゃないと」

 さりげなく言われた言葉に、金子は胸をつかれた。やっぱり戸澤も、二人の場面を大切にしたい、という同じ思いでいてくれたのだ。

「でも、さっきみたいに変なこと考えてうわの空にならないでね」
「変なことって……」

 金子が言い返そうとしたとき、戸澤はすでに次の場面に出ていったあとだった。


 竹団の四月の国立銀座歌劇場公演・顔見世舞踊ショウ『エル・タンゴ』の後の休憩時間は、たったの三十分だ。
 その間に、舞台は次の芝居『魔界転生』のセットに組み替えられ、出演者たちは化粧や衣装を調えなくてはならない。
 特に、花水木歌劇団ではショウと芝居は和物と洋物を組み合わせると決まっているので、休憩時間には化粧を一からやり直さなくてはならず、かなりの手間が必要だった。
 こんなとき、人一倍準備に時間がかかるのが、トップの戸澤愛である。何せ、舞台を降りたばかりの戸澤は、あまりにも集中してその世界に入り込んでいるため、頭がまったく働いていない。そのうえ元来の不器用ときている。
 だが、周りの劇団員はしっかりとそのことを心得ていて、戸澤が「えーっと」と言い出す前にすべての手順を先取りしてくれるのだ。

「失礼します、紗智です」

 今日も、戸澤の相手役である竹団トップ娘役の久米島紗智は、自分の準備を超特急で済ませて戸澤の楽屋に飛び込んだ。とりあえず裸になって化粧を落としてはいるものの、まだ戸澤は幾分ぼうっとした顔で鏡の前に座っている。

「やっぱりさっちゃんは、踊りやすいねえ」
「何おっしゃってるんですか? ちょっと頭、失礼しますね」

 久米島は有無を言わさず戸澤の髪をブラシでオールバックにとかし、きっちりと羽二重を巻いた。和物の場合はそうしておいてから化粧をして鬘をのせるのだ。
 戸澤はさっき踊ったばかりの、ショウのフィナーレ前のデュエットダンスのことを思い出しているのだろう。アルゼンチンタンゴの高度なテクニックが満載され難しいリフトも組み込まれた長いデュエットを、踊りの得意な久米島は稽古中も本番も心から楽しんで踊っていた。もちろん戸澤のリードが完璧だからだが、まるで組んだ二人がひとつの生き物に見えるほどぴたりと息が合っていると観客の評判も上々だ。

「愛さん、目つぶってください」
「なんでつばさはできないのかなあ」
「口開けないでください」

 久米島は白い下地を戸澤の顔に素早く塗っていった。そして刷毛とおしろいを戸澤の手に握らせると、

「耳の後ろと首は自分で塗ってください」

と言って、手早く着物用の下着をそろえていった。化粧が済んだらこれを着せて、衣装部屋に連れて行って衣装を着せて、最後に鬘だ。
 久米島も、トップ娘役に就任してすぐの頃は、七年も先輩の男役に対してこんなにビシビシと命令口調では失礼ではないだろうかとためらっていたが、今はすっかりそれが自分の役目だと理解していた。戸澤のぼんやりしたおしゃべりに付き合っていたら、とうていあと十分で支度を完成させることなどできない。戸澤はまったく危機感のない顔で、のろのろと首におしろいを塗り始めた。

「あの子、いまだにぎこちないんだよねえ。さっちゃん、アドバイスしてあげてよ」
「そんなことつばささんにはおっしゃらないほうがいいですよ、落ち込んじゃうから」
「そうかな。でも家で練習してるときにはちゃんとできるんだよ。……あ、そっか!」

 戸澤は何か重大なことに気がついたように、眠そうだった目をぱっちりと見開いた。久米島も何だろうと気になって鏡越しに戸澤の顔を見る。

「ちょっと腰砕けさせたほうがいいのかも」
「………」
「明日からやってみよ」

 久米島は気の毒な金子に同情した。舞台でいきなり何かされて踊れなくなってしまわなければ良いが……。でも、それを前もって金子に教えてやる義務も権利も久米島にはない。
 そのとき、楽屋のドアが元気のいい声と同時にノックされた。

「つばさです、入ります。あ、紗智、あと代わる。早く衣装行ってきなよ」

 金子はもう完全に天草四郎の扮装をしていた。妖術使いの敵役ということで妖しさを強調するメイクをしているので、見慣れている久米島でも少しぞくっとする。
 しかし今は、その美しい姿は哀れな生贄にしか見えなかった。

「はい。じゃあつばささん、後はよろしくお願いします。失礼します」
「行ってらっしゃい」

 久米島はなるべく二人を見ないようにしてうつむいたまま会釈をし、楽屋を出た。明日の金子の運命はいったいどうなるのだろう、と心の中をときめかせながら。
 戸澤の相手役は大変だが、この楽しみがあるからやめられないのだ。


おわり

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