危険な先輩


 行きつけのバー、というものが井之口にもある。
 国立銀座歌劇場から徒歩5分のその店に通い始めて10年、もうカウンターに座れば初日はマルガリータ、千秋楽にはマティーニが言わなくても出てくるほどだ。
 井之口は酒が好きで、ひとりでも飲みたくなるとふらりとバーへ行く。何も話さずただ一杯飲むだけでも気分転換になるのだった。
 ただその夜は、偶然にも劇団の先輩がカウンターに先に座っていた。

「……粟島さん……?」
「井之口……公演終わり?」

 振り向いた先輩は金髪の長い前髪をかきあげてゆっくりと瞬きした。美人が男装をするともっとその美しさが強調される、そんなお手本のような男役だ。

「はい。お稽古帰りですか?」
「そう。……座れば?」

 隣の椅子を軽く触る、そのさりげない仕草がしびれるほど恰好良い。粟島は井之口がこんな風になれたらと憧れる究極の先輩だった。
 井之口はスツールによじ登り、バーテンダーにギネスを注文した。

「粟島さん、この店よく来られるんですか?」
「いや、初めて」
「そうなんですか。俺……私、常連なんです」
「ごめん。もう来ないから」

 後輩のオアシスを奪わないようにと気を遣ってくれる粟島は、やはり物のわかる人だ。

「そんな、気に入ったら来てください」
「井之口に会えるなら」

 さらりと言って粟島は口元にかすかな笑みを浮かべながらジントニックのグラスを傾けた。粟島には才原という素敵な恋人がいるのに、言い慣れた戯れがつい出てしまうようだ。

「もう、そんなこと言って。才原さんが聞いたら怒るんじゃないですか?」

 別にからかうつもりではなかったのに、粟島はほんの少しジャケットの肩をすくめて冷たく無表情な真顔になってしまった。井之口は機嫌を損ねたのではないかと恐れたが、本当はこれが粟島の照れた顔なのである。

「さあね。磯田に知られたら殺されそうだけど。……この前の夜、磯田とケンカした?」
「え?」
「一月の中ごろかな」
「ああ……」

 その一月中旬のある夜、磯田は粟島の家での集まりに参加して、そこで井之口の恥ずかしい思い出をばらしたのだ。井之口は憤慨したが、磯田がのろけ話をしたがるタイプだということはよくわかっていたので、ケンカにまでは至らなかった。

「反省してるみたいだったんで、まあ、許しました」
「遠慮や我慢はしないほうがいいよ。向こうはキャリアの違いなんて案外考えてないもんだし」

 ギネスのグラスがカウンターに置かれ、粟島は自分のグラスを静かにそれに当てた。井之口は薄茶色の泡が消えないうちに最初の一口を飲んだ。

「言いたいことはちゃんと言ってますよ。昔から未央とは上下関係ほとんどなかったので」
「そう? いやいや抱かれてるんじゃないの?」

 井之口は真っ赤になった。磯田はこの先輩に何をどこまで喋ったのだろうか。帰ったら喉元をしめあげてとっちめてやらなければならない。
 だが粟島の気遣わしげな表情を見て、かっとなった気持ちがおさまった。本当に心配してくれているのだ。

「そういうわけじゃないです」
「ならいいけど」

 井之口は緊張と焦りのために喉が渇いて一気にビールを飲んでしまい、急に入ってきたアルコールの熱に、ふと警戒心が緩んだ。
 粟島になら聞いてみてもいいかもしれない。ものすごく口が固そうだし、井之口が求めている答えも知っていそうだ。

「粟島さん……、その……いつまでもいやがってたりしたら、冷めますか?」
「それはない」

 即答だった。

「ただ、嫌われてるとは思うかも。理由を知りたい」
「……それが難しいんですよね……」

 井之口は空になったグラスを置いて溜息をついた。

「なんか、自分でもわかんなくて、反射的にいやって言っちゃうんです」

 あのときの気持ちを説明しろと言われてもできない。磯田の手が触れてきただけで、いや、欲情をたたえた目で見つめられただけで、逃げ出したくなるのだ。
 粟島の白く長い指が井之口の頭をかすかに撫でた。

「そのうち慣れるよ。磯田にたくさん優しくしてもらいな」

 井之口はまた赤くなって額を押さえた。唇がどんどんへの字になっていくのを止められなくて、粟島に笑われている。

「彼女にお代わりを」

 粟島が頼んでくれたギネスがほてった体に冷たくしみる。
 ふと、粟島に抱かれたらどうなるだろう……と思ってしまい、井之口は思いっきり全力でその考えを打ち消した。
 粟島は相手にいやだと言わせない術を持っていそうだ。最初から当たり前のように自然に隣の席に座り、言葉がぶっきらぼうなのに気まずくなく、いつの間にか誰にも言えるはずのなかったことまで打ち明けてしまっている。このままいけば、気付いたら一緒にベッドの中にいた、なんてことにもなりかねない……そこまで考えが至ったところで井之口は慌てて腕時計を見るふりをした。

「すみません、私そろそろ失礼します」
「そう。お疲れ」

 粟島はニヤリと笑って井之口に流し目をくれた。もしかしたら、何を想像したかも見抜かれているのかもしれない。確かに危ない人だ。磯田が過剰に警戒するのもわかるような気がする。

「お疲れ様でした」

 井之口は逃げるようにバーを後にした。今日ここで粟島に会ったことを磯田に言おうか言うまいか、真剣に迷いながら。


おわり

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