思い出の日 「夕子、マッサージするから脱いで」 「もう今日はいいよ、明日休みだし。……ねえ、未央」 「ん?」 不機嫌そうな声に振り向くと、脚を投げ出してベッドに座った井之口が、大きすぎるTシャツの肩を少年のようにすくめて言った。 「……あのさ……したいんだったらそう言えば? 遠まわしにマッサージとか言ってもバレバレだから」 ああ、なんて可愛い誘い方! 磯田は自分に都合よく解釈し、勢いをつけて彼女に飛びついた。 「したい! いい?」 期待を込めて目を覗き込む。 「ほんと、元気だよね……」 「夕子見たらどんなヘビーな公演中でも元気になるの。はい、バンザイして」 長袖のTシャツを脱がせ、景気よく枕の上に押し倒した。湯上りの肌の匂いにくらくらしながら首筋に唇を添わせ、押しのけようとしてくる両手を握って指を絡ませる。一時もじっとしていられずに身をよじる井之口を唇でなだめながら柔らかい肌の上へ降りていくと、小さなかすれ声に呼ばれた。 「未央……」 「ん?」 「キスして」 もちろん望むところだ。こちらは昼間からずっと我慢していのだから。 井之口は細い腕で磯田の首にかじりついてきた。キスしながら井之口の短パンを脱がせ、自分も着ていたバスローブを脱ぐ。しがみついてくる相手の服を脱がせる器用さだけはどんどん磨かれていって、団員プロフィールの特技の欄に「夕子の服を脱がせること」と書きたいくらいだ。 だが、二人とも裸になっていざこれからという状況になっても、井之口は抱きしめた磯田の首をなかなか離さなかった。 「……夕子……、他のとこにもキスしたいんだけど……」 「やだ」 「どうして?」 「これがいい」 今夜はこのパターンのようだ。 もちろんキスをねだってくる井之口も可愛いが、磯田としてはそれだけで終わってしまうなんて冗談ではない。力が抜けてきたのを見計らって井之口の手首をつかみ、ゆっくりと外させた。 「夕子、膝立てて」 「やだ」 「あーあ、今日もヤダヤダの夕子ちゃんですか」 への字に曲がった唇にキスをして、脚を動かすのを手伝ってやり、膝小僧を両手でさすりながら体をかがめて耳元に囁く。 「足の力抜いて、外側に倒して。ぱたん、って」 ぱたん、と言いながら膝をこじあけ、太腿の内側を晒させる。柔らかい井之口の体は簡単に開ききった。磯田の目が完全に肉食獣のそれに変わり、目の前のごちそうにむしゃぶりつこうと身をかがめた瞬間、急に髪の毛をぐいっと引っ張られた。 「痛っ!! 何するの!」 井之口はがむしゃらに上半身を起こして磯田の首にかじりついてきた。 「夕子……」 仕方なく抱きとめると、磯田の肩に顔をうずめて、小鳥のように震えている。 「なに? 泣いてるの?」 井之口の体には繊細な波があって、同じことをしても平気なときもあれば駄目なときもある。同じ女なのに、井之口がどう感じているのか何を考えているのか、磯田にとってはいつも暗闇を手探りで進むようなものだった。しかも井之口は自分の気持ちを遠慮して黙っているたちなので、放っておくとどんどん心の距離が離れてしまう。 磯田は溜息をついて井之口の痩せた背中をさすった。 「夕子、どうしたの? ちゃんと言わなきゃわかんないよ」 井之口はぎゅっと抱き着いたまま、磯田の耳にやっと聞こえるくらいのかすかな声で囁いた。 「……未央……、の、顔……見えないと、怖い……」 何、だと。 磯田の頭は目がくらみそうになるほどの愛しさで沸騰した。薄闇の中でもわかるほど耳まで真っ赤になっている井之口を、ぎゅっと抱きしめる。 「そっか。ごめんね、夕子……」 「……で?」 「だから何?」 二人の先輩に冷たい問いを浴びせられ、甘い熱に浮かされていた磯田は急に現実に戻った。 「ですから、どうしたら顔を見せつつ下の方に移動できるかってことですよ」 向かいの席の先輩は、ギリシャ彫刻のような色白の横顔を見せて冷たい声で吐き捨てた。 「しなくていい」 そしてその隣の席の先輩は、まるで磯田を犯罪者か何かのような目で見て言った。 「相手が嫌がってるんだから我慢しなよ」 「そんなぁ」 ベッドの上でいつまでも見つめ合っていなければならないなんて、制約が多すぎる。やりたいことは次から次へと思い浮かぶのに、たまのチャンスにも自由に動けないなんて、さらに欲求不満の塊になってしまいそうだ。 「じゃあ粟島さんだったらどうするんですか? 相手に嫌だって言われたらやめるんですか?」 「言われたことないからわからへん」 抑揚の薄い関西弁の一言がやたらと癪に障る。聞きようによっては強烈な惚気でもあり、嫌がられている原因はお前にあると言いたげでもあった。実際にはその通り、磯田が過去にトラウマを与えるような無理強いをしたせいなのだが。 「つばささんは?」 「相手が嫌がったらやめるよ。当たり前じゃん。なんか未央ちゃんの話って一方的なんだよね。本当に両想いなの?」 「……それ、すごく痛いんですけど……」 磯田は水割りのグラスの上に突っ伏した。 三人は粟島の六本木の自宅に集まり、ファンミーティングの打ち合わせと称して飲み会をしている。酒は持ち込みで、つまみは金子が粟島のキッチンを借りて適当なものを作ってくれていた。 初めはちゃんと仕事の話をしていたのに、夜が更けるのと酔いが回るのとにつれて、話題はいきおい恋の話になった。三人とも、恋人とは女同士でトップ・準トップの関係という似た境遇のカップルだから、わかりあえることこの上ない。 「立場が上でキャリアも先輩だと相手は逆らえないんだから、本当に合意かどうかは気をつけたほうがいいよ」 「それは大丈夫ですよ! 夕子は私のことちゃんと好きですから」 「怪しいな」 粟島に冷たく言い放たれ、磯田は泣きそうになった。 「口ではやだやだって言うけど、体は……体も嫌がってるけど、いやよいやよも好きのうちって言うじゃないですか」 「それは女にモテへん男が自分を正当化するための言葉やろ」 「ひどい……」 粟島の言葉は一刀で磯田の心を両断する。そう言われれば、一方的に抱いて、告白して、家に押しかけて、同居させただけだ。井之口はただ断れなかっただけなのかもしれない。上下関係のせいだとは思わないが、長年の親友としての情がそうさせたのかもしれなかった。 気が付くと、テーブルに突っ伏している目の前にティッシュが差し出されていた。 「そんなに自信ないんか」 頷きながら涙を拭いていると、粟島の白い手がぐしゃっとワンレンの髪を乱した。落としておいて慰める、このさりげないテクニックが女殺しの所以だと、わかっていてもぐっとくる。 金子も心配そうに聞いてきた。 「向こうから好きだって言われたことないの?」 「……ほとんどないです……」 「抱いてって言われたことも?」 「ないですよそんな夢みたいなこと……。……あっ!」 ため息をつきかけて思い出した。一度だけあったのだ、その夢のような出来事が。 「あります! ああよかった……やっぱり片思いじゃなかった!」 肩を震わせて笑っている先輩二人を順番に小突きながら、磯田はここぞとばかりに自慢した。 「去年の誕生日に、やってくれたんですアレ。『プレゼントはわ・た・し』、ってやつ。あんなのエロ漫画かAVの中にしか存在しないと思ってたのに、あの夕子がやってくれるなんて、ほんと、鼻血吹くかと思いました」 大切な思い出に浸っていると冷たいグラスを両側からこめかみにぶつけられた。 「やってらんないよね。この幸せ者が。よし、お姉さんがイカ焼いてあげる」 「ニンニク使わんといて」 「はいはい」 金子は台所へ行った。飲んでいる最中でも気付いたことがあれば後輩に命じたりせず自ら身軽に立ち上がって動くのが金子の凄いところだ。金子の辞書に面倒臭いという言葉はないのだろう。彼女の恋人である竹団トップの戸澤愛は、劇団内でもファンの間でも、極端にものぐさなことで有名だ。そんな戸澤の面倒をみるのが金子の生きがいで、実によくできた組み合わせなのだった。 「粟島さん、ニンニクがだめって、明日デートなんですか?」 「さあね」 粟島の表情からは何も読み取れないが、答えないというのはそういうことだろう。粟島は松団トップの才原霞という天才男役と付き合っている。金子たちと違って、このカップルの私生活は磯田には想像もつかなかった。 「才原さんとデートするときどんなとこ行くんですか?」 「どこにも行かない」 「誕生日に何あげました?」 「何も」 「どっちが攻めなんですか?」 「想像に任せる」 会話にならないので、磯田は携帯を取り出してこそこそと井之口にメールを打ちはじめた。 『いま、粟島さん宅で飲んでます。話の流れで去年の誕生日プレゼント思い出しました。今年も同じのでいいからね』 そこまで打ったとき、耳元で突然粟島の声がした。 「同じの『が』いいです、やろ。そこ間違えたらあかん」 「見ないでくださいよ!」 あわてて画面を隠したが、もうすべて文面がばれていることは明らかだった。しかしさすが粟島、女心をそらさぬメールの達人だ。アドバイス通りに文面を直して送信し、携帯をしまいこむ。 それにしても今はまだ一月。七月九日の誕生日まであと半年もあるなんて磯田には待ち遠しすぎた。だが半年先でもいいから、相手が自分を求めてくれるという希望があるのなら、それだけで生きていられるというものだ。 にやにや笑いをとめられないまま水割りのお代りを作っていると、粟島に怪訝そうな顔で見られた。 「まさか今のメール送ったんか?」 「送りましたよ」 粟島は憐れむような目つきでこれみよがしに溜息をついた後、立ち上がって金子を手伝いに行ってしまった。いったいあのメールの何が悪いのだ? しかもちゃんと粟島の言う通りに直したのに。 そのとき携帯がメールの着信を知らせてきた。井之口からだ。ちょっと照れた感じで『今年は違うのにする』とか、『やめろよ』とか来るのか……とわくわくしながら開くと、絵文字もない黒い文字の短い一行が目に飛び込んできた。 『あのこと喋っただろ? 殺す』 磯田の酔いはいっぺんに冷めた。これはまずいどころではない。 「すみませんっ! 私、帰ります。お邪魔しました」 磯田はバッグをひっつかんで先輩たちのいる台所を覗き、ぺこぺこ頭を下げた。 「なんで? 今イカの炒め物できたのに」 「ちょっとのっぴきならない事情が発生して……」 「早く帰ってシラ切りとおせよ」 粟島はひらひらと追い出すように手を振った。さては返信も見抜かれている。そこまでわかっているならなぜ送る前に止めてくれなかったのだ。しかも文面を直させたりまでして。 以前から思っていたがこの粟島という先輩は、たとえ決まった相手がいてもつねに可愛い子にはチェックをいれていて、井之口にも当然目をつけているのだ。そんな油断も隙もない女の前でのろけたのが失敗だった。きっとさっきから磯田の話を顔色一つ変えずに聞きつつも、自分ならそんなへまはしない、嫌だなんて最初から言わせないと心の中で思っていたのだろう。 また井之口の信頼を裏切ってしまった。 顔が見えないと怖いとか、二人の大事な思い出を喋ったら殺すとか、要は信頼できないと言われているのと同じだ。そしてそれが全部自分の行いのせいだということもはっきりしている。ただ井之口のことが好きなだけなのに、なぜこうなってしまうのか。 磯田はタクシーのなかで逸る思いに身を焦がしていた。 帰り着いた代々木の新居は、真っ暗で寒く、人の気配もしなかった。 しかし、寝室へ入って明かりをつけると、丸く盛り上がった掛布団の端から小さな茶色い頭が覗いていた。ほっとして泣きそうになる。まだ出て行かれてはいなかった。 「ただいま。寒くない? ちょっとだけエアコンつけるね」 返事はなかった。だが眠っているわけではないとなぜか分かる。 リモコンで暖房のタイマーをセットすると、一刻も早く生身の井之口のぬくもりを感じたくて服のままベッドにもぐりこんだ。 「酒臭い。風呂入って来いよ」 「夕子……!」 口をきいてくれた、ただそれだけで嬉しくて、磯田は夢中で井之口の背中を抱きしめた。 「なんだよもう……」 「さっきのメールだけど、誕生日のこと粟島さんたちには言ってないからね」 「いいよ別に」 そうつぶやく背中からは、言葉とは逆に、良くないオーラが滲み出している。親友として十年以上一緒に過ごしてきた井之口には、先輩たちに囲まれて自慢話をしている磯田の姿などお見通しなのだ。 磯田は開き直った。どうせバレているならそもそも嘘などつく必要はない。 「ごめん、いまの嘘。だって『ほんとに両想いなの?』って言われて悔しくて、夕子とのラブラブエピソード披露しようと思ったら、それしかなかったんだもん」 口にするとまるで頭の弱い女子高生のような言い訳になってしまった。 呆れかえっているらしい井之口の返事もなく、磯田はますます落ち込んだ。過去の恋愛では常に相手に求められかしずかれて女王様のように愛をほしいままにしてきたのに、今はたったひとつの思い出にすがって生きている。なんて情けないありさまだろう。 しかし、このままでは終わらない。いや、終われない。 「私、夕子が好きになってくれるように頑張るから」 「何だよ急に」 「夕子は私のこと好きじゃないんじゃないかって不安だったけど、嫌がられることばかりしてきたから当たり前だよね。これからは、もっと夕子が安心できるパートナーになれるように頑張るよ」 「……頑張られても困るんだけど」 聞き慣れた小さな溜息と一緒に寝返りを打ってこちらを向いた井之口が、布団をかき分けて磯田の肩に額をくっつけてきた。昔から、何か言いにくいことがあるとき、照れ屋の井之口はいつもこうする。顔を見られずにすむように、そして小さい声でも伝わるように。 「何?」 優しく促すと、井之口は至近距離でもやっと聞こえるくらいのかすかな声で言った。 「……これ以上、好きにさせるなよ」 「えっ」 「不安なのは俺のほうだし」 「どうして?」 「未央がしたいこと……俺は苦手だから……その……、ごめん」 途切れ途切れに言葉を紡ぐ井之口を抱きしめ、磯田は去年の誕生日以来久しぶりに鼻血が出そうな興奮を感じていた。洗いたての髪のシャンプーの香りと、確実に上がった腕の中の体温と、恥ずかしそうに口ごもるハスキーな囁きが、天井知らずの相乗効果を生み出している。 「そんなこと謝らなくていいの。夕子は夕子のままでいいんだから」 「ほんとはさ……、嫌じゃなくても嫌って言ってるときあるんだ……」 「うん」 「胸揉むくらいだったら別にいいし……」 「うん」 「キスとかも好きだし……」 「そう」 「でも何もしなくて抱き合ってるのが一番好き」 「ふうん」 「それから……俺も未央に触りたい」 「いいよ」 静かな空調の音がして、温まり始めた部屋の中で、ひそやかな会話はしばらく続いた。 自分はなんて愚か者だったのだろう。二人の思いが通じ合っていることはずっと前から疑う余地もなかったのに。井之口は言葉にしなくても目で、全身で伝えてくれていたではないか。 この何でもない今日の一日が、去年の誕生日よりも思い出に残る日になるかもしれない。 最愛の人を抱いて眠りに落ちる寸前、そんな予感が磯田の胸をよぎった。 おわり トップへ戻る Copyright (c) 2013 Flower Tale All rights reserved. |