恋の話


 今年の花水木歌劇団の慰安旅行の行先は、日光だ。
 修学旅行の学生たちが泊まるような大きな旅館に、劇団の関係者500名近くが一気に宿泊する。予算を節約するため、スタッフの男性たちは宴会場に雑魚寝し、劇団員たちも、何十畳もある和室にびっしりと布団を並べて寝る。
 しかし、各団のトップスターと準トップの6人は、一応デラックスルームという名のついた20畳ほどの個室を用意されていた。

「ただいま帰りましたー」
「長谷川です、戻りました」

 長谷川葵は同期の倉橋真名と一緒に大浴場から"トップ部屋"へ戻ってきた。
 ふすまを開けると、風呂に出かけるまではテーブルと座椅子が並んでいた畳の上に6流れの布団が並べて敷かれている。そして、浴衣姿の先輩たちが思い思いの姿勢でくつろいでいた。一年前までその他大勢のひとりだった長谷川には、このスターだらけの特別室が自分の居場所だということがまだ少し信じられない。

「お帰り。寝る場所、プログラム順になったからよろしく。杏里ちゃんの隣が葵で、その隣が真名ね」

 細かいところに気の付く金子つばさがてきぱきと指示をくれた。
 プログラム順とは、入団年数が古く卒業試験の成績が上位の人から順番に並ぶという意味だ。一列に並んだ布団の右端から、竹団トップの金子つばさ・松団トップの粟島甲子・松団順トップの井之口夕子・梅団トップの倉橋真名・竹団準トップの長谷川葵・梅団準トップの高村杏里という並びになる。
 長谷川は指定された布団にさっそく座りこみ、持ってきた読みかけの文庫本を開いた。今いちばん好きな作家の新作ミステリで、この旅行でゆっくりと読むのを楽しみにしていたのだ。が、二行も読まないうちに隣の倉橋に邪魔された。

「ねえねえ葵、場所代わって」
「は? なんで」
「なんででも良いだろ」

 倉橋が強引に布団に入ってこようとしたので、長谷川はぐいぐいと押し返した。

「もう座っちゃったし本読んでんだから邪魔すんなよ。つばささんがプログラム順って言ったろ」
「ケチ!」

 倉橋がつやつやとした脛をむき出しにしてしつこく足技をかけてくるのをかわしていると、案の定、隣でストレッチをしていた井之口に注意された。

「真名、静かにしろよ、ほこりが立つだろ」

 そのとき、流れていたテレビコマーシャルの音が突然消えて、金子がパンパンと手をたたいた。

「みんな注目! せっかくこのメンバーが揃ってお泊りするんだから、恋バナしようよ」

 長谷川は、金子の生き生きした瞳を見て思わず溜息をついた。年に一度の慰安旅行の夜に、静かに読書を楽しませてもらえると思っていた自分が甘かったようだ。今までは大部屋の隅にひっそりと隠れていればよかったが、今年からは少人数部屋の一員、そうはいかない。
 しかし、金子の女子会ノリに賛成でない人は他にもいた。

「却下」
「聞くのはいいけど話したくないっす……」
「俺も別に話すことないし」

 粟島、倉橋、井之口の三人ともに乗り気ではなさそうだ。長谷川は返事のない高村が気になって隣の布団を見やった。すると、高村は、綺麗な中間色の瞳を今にもつぶれそうなほど細くしてこっくりこっくり頭を揺らしていた。この部屋のなかで一人だけ六年もキャリアの離れた末っ子の高村は、緊張と気遣いでクタクタの上に、くじ引きで余興のメンバーに選ばれていて、さっきまで宴会場のステージで漫才をやったりしていたのでもう疲れきっているのだった。

「……高村、眠い? 寝てていいよ」

 長谷川は小さく声をかけて、はい、と素直に横になった高村の体に掛け布団を引き上げてやった。なんだか不思議に世話を焼きたくなってしまう子なのである。
 一方、金子は大多数に反対されてもいっこうにめげなかった。

「わかった、言いたい人だけでやろう。じゃ、甲子から」
「なんでや!」

 思わず突っ込む粟島の声が響いたとき、井之口が遠慮がちに口を開いた。

「そういえば粟島さん、才原さんと別れたって本当なんですか?」

 長谷川はその一言を聞いて心底びっくりした。粟島は七年前まで竹団にいて、わりと入団年の近い先輩だったので、長谷川もそれなりに世話になっている。モテるがクールで有名な粟島に恋人がいたとは知らなった。しかもその恋人が数か月前まで松団トップスターを務めていた天才男役の才原だとは。
 長谷川は思わず粟島の表情を凝視した。風呂上りのすっぴんに洗いざらしの髪でも、彫刻のような冷たい美しさは少しも損なわれていない。

「ああ、別れた。けど……」
「けど?」

 恐れ知らずの倉橋が合いの手を入れる。粟島はふっとため息をついた。

「忘れたわけじゃない」
「………」

 倉橋は自分で聞いたくせに気まずそうに黙りこんでしまった。

「人に言わせといてシーンとするな」
「じゃあ甲子、次の人指名して」

 金子は明るい声でさらっと空気を変える。こういうところが人望の所以なのだなとのんびり感心していた長谷川は、続く粟島の言葉で一気に冷や汗をかくことになった。

「長谷川。近況全然知らないから」
「あ、そっか。甲子は松団に異動してからあんまり葵と話してないよね」
「そういえば葵って恋人いるの? 佐野っち? 違うよね」

 いきなり皆の視線が自分に集中し、長谷川はもう金子に助けを求めるしかなくなってすがるようにそちらを見た。

「はいどうぞ、葵。この機会にちゃんと話したら?」
「ええっ……」
「ちゃんと、って何?」

 倉橋のうらめしそうな顔を見ると長谷川は親友を裏切ったようで申し訳ない気持ちになった。降旗とは今のところ上手く行っているが、とにかく惚気るのは苦手で、自分に自信がないことの裏返しなのか顔がこわばってしまう。

「ごめん、真名。実は……今、付き合ってる人がいて……」
「誰?」
「えっと……、k……」

 いざその名を口にしようとすると長谷川は猛烈に照れてしまった。もったいぶっているわけではなくどうしても勇気が出ないのだ。
 そのとき、助け舟を出してくれた先輩がいた。

「わかった。もしかして私の同期の奏子じゃない?」
「正解! 夕子ちゃんすごい、なんでわかったの?」
「やっぱりね。養成所のころから二人はどこか雰囲気が違ってたから。大人な感じっていうかさ」

 井之口と金子とのやりとりに顔を赤らめていると、倉橋がタックルをかましてきた。

「マジか。言えよこのやろー!」
「ごめん」
「許さねえ。いつから? どっちから? どこまで?」
「……やめろ、ってば……!」

 簡易な着付けの旅館の浴衣をはぎ取らんばかりの勢いで体中をくすぐられ、長谷川はますます顔を赤くして抵抗した。

「真名、いい加減にしな。ほこり立てるなって言っただろ」
「すんませーん」

 倉橋はくすぐり攻撃の手を緩めないまま先輩に謝る。長谷川は必死にもがきながら口でやり返した。

「そういう真名はどうなんだよ」

 すると倉橋は一瞬にしてしゅん、と大人しくなった。井之口が噴き出して笑いながら言う。

「大丈夫だよ、しゃべっても。杏里ちゃん寝てるから」

 井之口の一言で、その場の全員が左端の布団ですやすやと寝息をたてている高村杏里に注目した。
 そのとき長谷川はやっと気づいた。なぜ倉橋があんなに布団の場所を交代して欲しがったのか――。
 金子も粟島も井之口も、わざわざ立ち上がって高村の布団の周りを取り囲んで膝をつく。

「見て、天使の寝顔だよ」
「可愛いねぇ」

 にこにこととろけそうな顔をしている先輩たちと共に、長谷川も癒されていた。もう何年も前に、恵比寿のバーで倉橋が何度も「あの子はほんとに可愛いんだ」と繰り返していたことを思い出す。
 倉橋は自分の両手で顔を覆ったまま、見るな見るなと呟いていた。高村が眠っていないと話せないということは、まだ倉橋の片想いなのだろう。長谷川はふと思い立って、高村の寝顔のそばに顔を近づけて囁いた。

「真名のこと好き?」

 即座に背後から倉橋の手が伸びてきて、肩をつかんで引きはがされる。

「葵、何してんだよ」

 そのときだった。耳元で囁かれた高村が布団の中でもぞもぞと動いて、

「……んー……、好きー……」

とはっきり言ったのだ。
 全員が大きく目を見開いて顔を見合わせた。

「今の聞いた?」
「聞いた……!」
「許せんな」
「え。……えっ、ちょっと待って……うわあ」

 祝福のターゲットはあっという間に倉橋になり、倉橋の布団に次々とダイブする先輩たちに交じって高村も思う存分先ほどの反撃をしたのだった。

おわり
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