美しい人 【2】


 ところがどうして、高村杏里のサン・ジュストは実にスムーズにできあがっていった。
 というのも、漫画の実写化に際して最も重要なビジュアルの面で高村は完璧にキャラクターを再現していたし、さらに、出生の秘密と実姉からの歪んだ愛情のせいで精神的に不安定になっているサン・ジュストという役柄がまさに高村の精神状態にリンクしていたのである。高村が白いフリルのブラウスに黒いリボンタイを付けて暗い表情で床に座り込んでいるだけで、もう役作りは完成といってよかった。それに以前から高村は、稽古場では出来なくても舞台に上がると神がかり的に演じ切るタイプの役者なのだ。脇を固める布美子と瑞穂、サン・ジュストの姉役を演じる加藤亜沙美も、キャラクターを研究しつくした熱演で主演を支えた。

“巷に雨の降る如く…わが心にも涙降る…”

というサン・ジュストが歌う主題歌は、歌劇団すべての公演の曲を抑えてダウンロード一位に輝いたし、公演期間の後半になるとプログラムすら手に入らないありさまだった。一人の客が何冊も購入するのに気づいて、慌てて劇場が一人一冊までと制限したのだが間に合わなかったのだ。
 悲しいストーリーの作品ではあるが、布美子は毎日の公演がとても楽しく充実していた。出番の前には緊張してぶるぶると震える高村の手をさすって励ましてやらなければらないので、いつものように具合を悪くしている暇などなかった。
 瑞穂と舞台の上で爽やかに女友達の役ができるのも嬉しい。今回瑞穂が演じるのは男装の麗人とはいってもフィアンセのいる女性の役で、瑞穂はその相手役の先輩男役から「婚約指輪」をもらったと布美子に自慢してきた。

「見て見て。婚約指輪もらっちゃった」
「素敵ね。ちゃんとお礼を言った?」
「当たり前でしょ。っていうか怒らないの?」
「どうして」
「え。だって少なくとも私だったら、布美子が指輪もらって喜んでたら嫉妬するけどなあ」

 その指輪を瑞穂がつけるのはカーテンコールの時だけなので、普段はきちんと箱にしまっている。瑞穂はその箱をこれ見よがしに化粧前に置いていた。小劇場公演だから出演者が少ない割には楽屋の部屋数が多く、布美子と瑞穂は二人で一部屋の個室をもらっているので、指輪を目にするのは布美子だけだ。

「私を嫉妬させたいの?」
「まあ、そういうこと」
「お互いさまでしょ。私だってこの先、いろんな方から指輪を頂くかもしれない。瑞穂も他の娘役にあげることがあるだろうし、いちいち気にしないわ」

 布美子はそう言いながらも自分の口調にわずかに拗ねたような色が混じるのに気づいて苦笑した。やはり瑞穂が他の人と恋人役をやるのは寂しいのだ。
 すると瑞穂はさらっと布美子の機嫌を持ち直させることを言った。

「じゃあいつか本物あげるね。役とか関係ないやつ。どんなのがいい?」
「何でもいいけどペアリングは嫌」
「わかった。じゃ色違いにしよ、ゴールドとシルバーとか。布美子はどっちがいい? っていうか薬指のサイズ何号?」

 舞台の準備も そっちのけですっかり舞い上がっている瑞穂をどうしたものかと思っているところへ、主演の高村が布美子を探しに来た。

「布美子ちゃん、ちょっと金髪の鬘がからまっちゃったんだけど、手伝ってくれないかな? あ、ごめん、お話し中なら後でいいよ」

 高村は、瑞穂が舌打ちをしたのを見てすぐにあたふたと気を遣った。

「はい、今大事な話してて、どんな指輪がいいか聞いてたとこ……」
「すみませんすぐ行きます」

 布美子は瑞穂の手を思いきり振り払って立ち上がった。高村は指輪という言葉に長い睫毛をゆっくり瞬かせて瑞穂の化粧前に飾られた小箱を見やった。

「そっか……、ごめんね布美子ちゃん。今回の作品、高校生どうしだから指輪とかあげられなくて」
「そんな、とんでもないです」
「お互い初めての相手役だから、何か記念になるものがあればよかったけど……」

 そう言いながら楽屋着の浴衣の懐や袂を探っていた高村は、何かを握って取り出した。そして布美子に向かっておずおずと差し出した。

「これ、カフス……あげる。娘役さんは使わないだろうけど、工夫すれば他のアクセサリーに使えるかも」

 大小のストーンがシルバーの土台に配置されたそのカフスは上品な光を放っている。布美子は無理やり出させてしまったように感じて慌てた。

「こんな高価なもの……お気持ちだけで十分です、本当に」
「ううん、気にしないで。衣装に合わせてみたんだけどやっぱりない方が良いって佐野さんに言われたから」

 そのとき瑞穂がいきなりカフスを高村の手の上からさらっと奪ってためつすがめつし始めた。

「これカッコいいですね。私もらってもいいですか? 布美子はいらないみたいだし」
「ダメよ私が頂きます!」

 布美子は必死にカフスを奪い返し、瑞穂を睨んだ。

「なんで瑞穂が杏里さんからもらうのよ、おかしいでしょ」
「いいじゃん私のほうがカフス使えるし。それに布美子の初めての相手役は私ですから、そこんとこお間違えなく」
「消したい過去だわ」

 瑞穂は高村の言った“お互い初めての相手役”という言葉に反発しているのだ。布美子が赤くなって怒ると、高村は優しく白い手を伸ばして布美子の頭をたしなめるように撫でた。

「消したいなんて言っちゃだめ。大事な思い出なんでしょ、二人の」

 さらに高村は瑞穂に向かって、

「布美子ちゃんを5分だけ借りてもいい?」

と聞いた。高村は優しすぎる、と布美子はますます憤慨した。
 二人が温泉旅行をきっかけに恋人として付き合い始めてからの瑞穂の態度は、日に日に目に余るものになってきている。布美子は絶対に人前でべたべたしないようにしているのだが、瑞穂の態度があからさますぎて梅団の団員たちにもしょっちゅうからかわれてしまう。瑞穂にはもっとビシッと言ってやらないとわからないのだ、職場での公私混同はご法度だと。
 案の定、瑞穂は横柄な態度で、

「5分だけならいいですよ」

などと答えている。布美子は我慢できなくなってしまった。

「私は瑞穂のものじゃなくて、杏里さんの相手役なの! これ以上勘違いな発言したら、口きかないから」
「さっきは指輪欲しがってたくせに」
「いらないわよそんなもの」
「まあまあ二人とも、喧嘩しないで……。仲良くしなさい、ね」

 結局また高村にたしなめられてしまい、布美子は小さくなった。

「杉山君、布美子ちゃんは今は私の相手役だけど、すぐ返すから心配しなくて大丈夫……」
「嘘ですよ。そんなこと言ったってトップになったら布美子を“嫁”にするつもりなんでしょ。布美子は絶対私の相手役にする、それだけのために色んなこと我慢して頑張ってきたのに、結局先輩に取られるなんて、ばかみたい……」
「そんなことにはならないよ。次のトップは杉山君だから」

 その言葉に、ふてくされていた瑞穂だけでなく布美子も目を丸くした。今は倉橋真名がトップになって一年が過ぎたばかりだが、トップの任期は三年間であり、もちろん後任が決まるのは二年後の話である。そのとき瑞穂はまだやっと四年目だ。高村の言葉は冗談にしか思えなかった。

「何言ってるんですか。2年後ですよ?」

 高村は薄い色の髪を揺らして真顔でこくりと頷いた。

「私、トップのプレッシャーには耐えきれないからやめますってこの前、総務部長に言ったの。そしたら強く引き留められて……その時、杉山君をトップにしてくれたら準トップとして残留してもいいって条件、出したんだ」
「どうしてそんな……」

 どうやら本当の話らしいということがわかり、布美子は急に動悸が激しくなってすがるように瑞穂を見つめた。瑞穂がトップになるということは、トップに指名されるトップ娘役が自分になるかもしれないということだ。さすがの瑞穂も驚いているようで、今さらのようにあわてて椅子を差し出したが、高村はそれには座らず楽屋の閉めたドアにもたれて話し始めた。

「初めて顔見世舞踊ショウで杉山君と一緒に踊ったとき、この人とは並びたくないなあって思った……輝いてて、自信があって、技術もあって、こんなスターと比べられたくないって。でも真名さんに、あの子は出来るけどまだ一年目なんだから、杏里が面倒みて助けてあげなきゃいけないんだよ、そのために隣にいるんだよって言われて……ライバルじゃなくてサポートする役ならやってもいいって思ったの。それからずっと、杉山君が成長していくのを見るたびにその気持ちは強くなっていって、おこがましいけど、そういう形の三役がいる団っていうのもアリなんじゃないかなって思うようになった」
「そういう形……?」
「若いトップの同期コンビを、ベテランの準トップが支える、っていう。……真名さんのプロデューサー根性がうつっちゃたかな」

 高村は部屋の中にいる三人をひとりずつゆっくりと指さしながら答えて、布美子の心をじわっと暖かくするような小さな微笑みを浮かべた。

「だから杉山君、布美子ちゃんを取られるって心配したり焦ったりしなくていいんだよ。あ、でも、これから二年の間にトップになっても皆が納得するような場所まで上がって来てもらわないと困るけど……杉山君なら大丈夫でしょ」
「瑞穂って呼んでください」

瑞穂はそう言うなり、驚く布美子の目の前で高村に飛びつくようにして抱きしめた。瑞穂にとっては普通の感情表現なのだが、高村は見るからにあたふたしている。

「う、うん、瑞穂ちゃん……わかったから……」

 おずおずと瑞穂の背中を叩く高村を見て、布美子は、自分のことは置いておいても、この美しい二人の絡みがあれば次期の梅団は必ず成功するだろうと確信したのだった。

おわり

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