美しい人
【1】


 この先輩に最初に出会ったとき、布美子は、こんな美しい男役が世の中に実在するとは、と驚嘆したものだ。
 美形と謳われるトップスターの粟島甲子や磯田未央、それに同期の杉山瑞穂も、見つめられれば女なら誰もが恍惚としてしまうほどの恰好良さと色気を併せ持っているが、この高村杏里(たかむら あんり)という男役にはそれだけではない浮世離れした雰囲気がある。
 フランス人の血が濃く入った白い肌と漫画でしかありえないような身長175センチの完璧な頭身バランス、茶色くて長い睫毛に、何色とも言い表せないような憂いを帯びた中間色の瞳。そして布美子が好きなのは彼女の手だった。血管が透き通りそうに白い美術品のような手をしているのだ。その細すぎて節が立った長い指は、布美子の目の前で、自身の秀麗な顔を覆っている。

「ごめんね……布美子ちゃん。こんな情けない相手役で……」
「そんな。お顔を上げてください、杏里さん」

 ゆっくりとおろされた美しい手のひらの下の顔は青白くこわばり、睫毛も唇も細かく震えている。布美子は戸惑い、不安を掻き立てられた。
 梅団に入団し、花水木歌劇団の一員としてのキャリアをスタートしてから2年目の春、布美子に大きなチャンスが巡ってきた。
 赤坂小劇場公演の主役である。
 梅団準トップの高村杏里が小劇場で初主演を飾ることになり、布美子はその相手役として2年目ながら大抜擢されたのだ。
 作品は名門女子校を舞台にした少女漫画の傑作『おにいさまへ』の舞台化で、主演の高村はサン・ジュストという男装の麗人を、布美子は彼女に憧れる下級生の奈々子を演じる。重い秘密を抱えたサン・ジュストに偶然の導きで出会った奈々子は、自虐的で危なっかしい彼女に惹かれていき、ついに二人の思いが通じ合ったところでサン・ジュストは奈々子にあげるはずの花束を追いかけて鉄橋の上から線路に身を 投げてしまうのだ。
 金髪ロングヘアの繊細な役どころは高村の持ち味にぴったりで、人気漫画の舞台化ということもあり、この公演の前評判は非常に高かった。
 しかし、稽古場での初顔合わせの後、布美子は高村の住む寮の一室へ呼び出されて、意外なことを告げられたのだ。

「私、この公演が終わったら、劇団やめる」
「えっ。ご結婚ですか?」

 布美子は驚きすぎてそんなすっとんきょうな言葉を発してしまった。高村は昨年準トップになったばかりで、あと2年の任期が残っているし、その後も次期梅団トップを引き継ぐことは間違いないと思われていたからだ。容姿だけではなく涼やかな心地良い歌声、誰にでも好かれる優しい性格の高村は、劇団の若手男役のなかで逸材中の逸材である。次期トップと目されているの入団8年目の男役が退職する理由など、おめでたか病気以外に考えられない。

「ううん、そういう訳じゃなくて……私、主役とか、とても無理だから……」
「はあ?」

 長いジーンズの脚を開いてベッドに腰かけた高村は、思いつめた暗い顔をしていた。心なしか数週間前より頬がこけたように見える。

「私、主役って、やったことがないんだ。だいたい準主役も、真名さんに無理やり準トップにされるまではやったことなかったし……。実は、一週間前にプロデューサーから台本をもらっていたんだけど、セリフ、一言しか覚えられなくて……一言言ったらもう次が出てこないの。一週間もずっとそれが続いてて、もう、限界……」

 高村は震える声でそう言うと手で顔を覆ってしまったのだ。ちなみに真名さんというのは現在梅団のトップを務める倉橋真名(くらはし まな)のことである。
 
「きっと本番でとんでもない失敗をして、クビになってしまうと思うから……、相手役をしてくれる布美子ちゃんには本当に申し訳ないけど、なるべく迷惑かけないようにするから、許してね」

 布美子も本番前に緊張すると貧血になるという悪癖を持っていたが、それにしてもこんなにプレッシャーに弱い舞台人がいるとは想像もしていなかった。しかも、もう舞台歴8年目にもなる準トップ男役である。

「杏里さんは今までたくさんの経験をしてこられたんですから、大丈夫ですよ。大失敗をしそうなのは私のほうです。杏里さんに引っ張っていただかないと……」
「ううん、布美子ちゃんのほうが私なんかよりよっぽどしっかりしてるし、上手だから、頼りにしてます」

 そのきれいな瞳は不安そうに潤んで布美子に助けを求めていた。布美子は半分はこれは芝居なのだろうかと疑い、半分は呆れながら、そっと高村の手を握ってやった。どんな言葉をかけたらいいのかわからなかったからだ。

「……布美子ちゃんの手、あったかい……」
「私でお力になれるかわかりませんが、一緒に頑張りましょう。やめるかどうかはその後にお考えになったら良いんじゃないでしょうか」
「いや、もうやめる。だってこのまま居たらトップにされてしまうもん。大劇場の主役なんて絶対無理。無理無理無理……」

 かき消えそうな声でそう繰り返した高村は、がりがりに痩せた体を丸めてベッドに倒れた。主演の話を聞いてから一週間、寝食もままならなかったに違いなく、確かに憔悴しきっている。
 布美子は溜息をつきそうになってかろうじて押しとどめた。
 そこへ、ノックの音が聞こえた。

『失礼します。梅団の杉山瑞穂です。高村杏里さんいらっしゃいますか?』

 うるさい奴が来てしまった、と布美子は内心顔をしかめつつ、高村にどうしますかとささやいた。

「杉山君か……ごめん、後にしてもらって。ちょっと気分が良くないから……」
「はい」

 布美子は立ってドアを開けに行った。

「あ、布美子、ここにいたんだ」

 少し伸びたショートヘアを黒髪のウェーブにした瑞穂は、遠慮なくドアの隙間から中へ体を突っ込もうとした。

「ダメ、今は。気分が悪くて休んでいらっしゃるから、後にして」

 布美子はすかさず阻止して瑞穂の長身を廊下に押し返す。瑞穂はたちまちむっとした顔になった。

「わかったけど、杏里さんと二人きりで何してんの?」
「バカじゃないの」

 布美子は問答無用でドアを閉め、鍵をかけた。
 高村演じるサン・ジュストの親友である薫の君役には、布美子の同期の男役、杉山瑞穂が抜擢されていた。舞台に出るようになってから3作品目で早くも小劇場の準主役を演じるというのは前例のないスピード出世だが、瑞穂はそんなことは気にも留めていないようで、今日も当然のような顔をして稽古場に来て、プロデューサーや演出家と対等に談笑したりなどしていた。
 瑞穂の図太さを高村の繊細さと足して二で割ることができたら……と布美子は思わずにいられない。

「悪いけど、少しの間でいいからここにいてくれる……? 眠っちゃうと何もしないで時間が経つのが怖くてしかたがなくて……、でも布美子ちゃんが一緒にいてくれると思ったら少しは安心できるような気がするから……」
「はい。ここにいますよ」

 布美子は母親にでもなった気分で、高村の体の上に薄桃色のタオルケットを広げて枕元に付き添った。白大理石の彫刻のような顔に、長い睫毛が震える影をつくる。こんなに美しい人がこんなに自信がないということが信じられない。布美子自身も舞台経験が浅い中での初めての主演にプレッシャーを感じていたが、高村の様子を見ているうちにそんなことは後回しだと思えるようになってきた。とりあえずこの人にしっかり自分の足で舞台に立ってもらわないことには話にならない。

「……誰にも言わないでね、私がやめるって言ったこと」
「まだどなたにも相談していらっしゃらないんですか?」
「うん。布美子ちゃんが初めて」
「真名さんには?」
「言えるわけないよ、怖いもん……絶対怒られる……」

 そう言ってまた高村はタオルケットを頭からかぶってしまう。
 布美子は、大丈夫、誰にも言いませんから、となだめながら高村を必死で寝かしつけた。この公演はどうなってしまうのだろうと果てしない不安を覚えながら――。

次へ

トップへ戻る
Copyright (c) 2016 Flower Tale All rights reserved.
inserted by FC2 system